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メッセージNo.32  「システム現象学:オートポイエーシスの第四領域」を読む

 河本英夫著「システム現象学:オートポイエーシスの第四領域(新曜社)」を3回読んだ。

 一度目は「信じられない」と思った。
 二度目は「あり得ない」と思った。
 三度目は「すべて理解できる」と思った。

 信じられない

 「信じられない」というのは、この本が書かれること自体が信じられないということである。オートポイエーシスの第四領域というものが創造(想定)されたことが信じられない。誰の頭の片隅にも第四領域はなかった。無から第四領域が創発された。著者の思考の中に第四領域があったのだろうか。無かったと思う。無かったのに第四領域が書かれた。そのことが信じられない。第四領域は書かれたが、それは第四領域ではないと考えることができる。しかし、著者は第四領域だと言っている。これを否定するためには第四領域は存在しないという本を誰かが書かなければならない。第四領域が存在するとすれば、著者以外の者が、その存在を肯定しなければならない。心の存在と同じで、自己と他者間の共有なくしては何も存在しないし肯定もされない。では、一体、誰が肯定するのか。

 物性の働きのなかに認知を導入するというこの局面は、物性の認知能力である内部観測に似ている。物性のなかには、物質の高度化にともなって、感覚知覚だけでなく、みずからを内的に感じ取る内感が生じる回路も出現した。この内感領域が「オートポイエーシスの第四領域」となったのである(p364)。

 内感を生じる物体、つまり、人間の身体のことである。リハビリテーションの臨床には、身体内感(手足がここにあるという意識)を感じ取れない患者がたくさんいる。だとすれば、オートポイエーシスの第四領域の存在を真っ先に肯定するのは、認知運動療法に取組むセラピストだということになる。あなたは、科学の最先端の超難解な理論を真っ先に肯定するのがセラピストだということを信じるだろうか。

 あり得ない

 「あり得ない」というのは、認知運動療法の知見がオートポイエーシスの第四領域の創造にヒントを与えているという事実ではない。ペルフェッティ先生は当初からオートポイエーシスの知見を認知運動療法の展開に活用している。人間の身体をシステムの創発特性として捉え、治療もまたシステム・アプローチとして構築しようとしてきた。部屋の壁にヴァレラの写真がかかっているのは、それなりの理由があってのことである。だから、これは驚くには値しない。
 あり得ないのは、認知運動療法の本質を解読する速度である。ある治療アプローチを解釈するためには、提唱者が書籍に書いた内容の背景にある余白の深さを読み解く必要がある。言葉で書かれた内容だけを理解することは誰でもできる。しかし、なぜそのように書いたのかを解釈するには膨大な時間がかかる。また、その解釈はそれが書かれた当時の科学的なあるいは臨床的な時代背景はもちろん、その解釈が時代の科学観や臨床展開の変遷によって変化する可能性まで考慮しておく必要がある。たとえば、リハビリテーションにおける筋力増強理論や神経運動学理論(ボバース法や感覚統合アプローチなど)を解釈しようとすれば、少なくとも50年という年月にわたるリハビリテーションの科学観や臨床展開状況を把握して論述する必要がある。ある治療アプローチの本質が、発表から50年後に理解されるという可能性すらあるのだ。
 僕は沖田一彦氏と二人で、認知運動療法を日本に紹介した時、その科学観や臨床実践思考の濃度(たとえば認知運動療法がポパーの科学論を背景に有していることの重要性など)は、恐らく50年先(2500年)のセラピストでなければ、その本質的な価値を見抜いた上で解読・解説できないであろうと語り合った記憶がある。そこで、まず、誰にも理解しやすい、基礎理論と具体的な治療方略の紹介に努めた。そして、ポパーの科学論の問題などはしばらく勉強をつづけ、自分の定年前、つまり現役を引退する頃に書けばよいだろうと考えていた。それが僕らの時代のリハビリテーションという学問のスピード感覚であった。
 ところが、本書では、アッという間にそれを解読してしまっている。僕らの想定したリハビリテーションという学問の時代的なスピード感覚は、まったく無視されてしまっている。いきなり、解読して終わりという感じである。それが「あり得ない」ということである。時代が43年、早くやって来たことになる。

 すべて理解できる

 「すべて理解できる」というのは、書いてある内容が生まれた背景が読み取れるということである。これは先生との個人的な関係を抜きにしては語れない。

 本書が書かれるきっかけは、恐らくカフカの「変身」であると思う。

 ある朝、グレーゴル・ザムザがなにか気がかりな夢から目をさますと、自分が寝床の中で一匹の巨大な虫になっているのを発見した・・・・

 この虫になってしまった人間が、どのようにして手足を制御できるようになるのか。小説の中の具体な記述を詳細に追って、環境と身体との相互作用をどのようにグレーゴルが認識し、運動制御に至るのか。つまり、人間の心がどのようにして思うように動かせない虫としての身体を制御できるようになるのかを読み解く。
 僕は、このカフカの新しい読み方を論文化するというアイデアを数年前に河本先生に伝えた。それはアフォーダンス研究で試みられているような分析に似ていた。試みる価値はあるという返事であったが、最終的には断念した。虫の手足の制御について、カフカはすべて三人称で記述していたからだ。一人称記述はどこにもなかった。ペルフェッティ先生にこのことを話したら、先生は一言、「虫はカフカ本人だ」と言って笑われた。

 本書には、カフカの変身と半側空間無視について次のような記載がある(p57,p221)。

 世界変容では、意味の変更とはまったく別のことが起きていて、その現実に注意が向いているにもかかわらず、意識の志向性によってその現実に変化をもたらそうとしても変化することはない。

 カフカの変身の冒頭には、主人公が目覚めたとき、なにやら全身が変容している場面がある。どうにも思うように身体が動かず、寝返りを打とうにもうまくできない。この変身での身体の変容の場合、主人公は動かない自分の身体にどう対処していいのかわからないまま、なお次の電車に乗らなければ会社に遅れてしまうと思い続けている。

 また、半側空間無視では・・・左側に注意が向かない・・。これは世界の変容(変貌)であって、世界内の事実誤認ではない。見当違いではないのだから、知の誤謬を訂正するような学習一般の対応によっては対処できない。左側もあるでしょうと認知的に反省を促しても、まったく無効である。

 恐らく、河本先生は、本書の構想段階で、カフカの虫と半側空間無視とを関係づけたと思う。つまり、世界の変容は、単に視点の変更では解決できないと考えたのである。あるいは、患者の病識のなさを世界の変貌と捉えたのである。
 脳システムの異常として生じる世界の変貌からの回復には、現象学的な「気づき(内感)」への働きかけが不可欠である。なぜなら、注意としての「気づき」なくして、新たなイメージ(知覚仮説)は発生しない。

 リハビリテーション・ルネサンス(春秋社)の解題にも、「壊れた脳 生存する知」の山田氏の「階段の前に立つと、私にはアコーデディオンの蛇腹のように、ただ横走する直線の繰り返しが見える」という記述を引用し、「この記述は、世界の変貌を示している。これは見当違いに類似した、見直せば違うように見えるような世界内の誤認ではない」と強調している。

 これらは、河本先生が認知運動療法と出会い、患者の病態を訓練室で観察し、セラピストの治療の困難さを把握してゆく過程で、決定的な何かに「気づいた」ことを物語っている。

 河本先生がイタリア・サントルソ認知神経リハセンターでのマスターコースに参加した時、先生のホテルのあるスキオで夜遅くまで飲んで、サントルソで住んでいた僕はタクシーがなくなり、強引に部屋に泊めてもらい、朝まで話し合ったことが思い出される(内田成男氏は先生に僕と飲むと眠れなくなると注意を呼びかけていたらしい)。何を話し合ったかはすべて忘れたが、時差ぼけで二日寝ていない先生が、「宮本君、足がここにないということだよ」、それは「あるはずのものがないということ」、「けれど足がないということに気づかない場合はどうなんだ?」、「ここに足がある、ない・・・」、そんなセラピストに取っては当たり前のことに先生は驚いて、夜中に「足があるとか、無いとか」叫んでいた。

 僕は、この記憶に、認知運動療法について勉強してきた経験のすべてを重ねる。

 さらに、エーデルマンの「損傷した脳は、欠損の知覚よりも知覚の欠損を受け入れやすい」という言葉を重ねる。

 だからだろうか、本書の「すべてが理解できる」と思う。

 二重作動性

 脳(=身体システム)は、作動(=経験)の継続によって、世界(=現象)を変貌させる。

 「システム現象学:オートポイエーシスの第四領域」は、患者の脳の世界変貌というたった一つの「気づき」から、一挙に書き上げられた本であると思う。

 河本先生は、オートポイエーシスの第四領域を自ら経験しながら、同時に第四領域の理論を創造するという、二重作動性を実践したのである。

 それはある意味、恐らく、奇跡的なことである。

 認知運動療法に取組むセラピストには、本書で解読された内容を理解しながら、同時に実際の臨床での治療に取組むという、二重作動性の実践が求められる。

 それは確実に、患者の機能回復につながるだろう。

 ゲーテの愛した茜色(?)が白に映える、美しい装丁の本である。

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