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今夜はアンリ・ベルクソンの『物質と記憶』(合田正人・松本力訳・ちくま学芸文庫)を読み返している。この1896年に書かれた本には何冊もの訳本がある。そのすべてを読んでみた。若い頃から、それらも含めて何度も挑戦しているが理解に到達できない。この本は難解なことで有名で小林秀雄も挫折して評論を完成できなかったようだ。だから、こんな難解な本は放っておけばよいのだが、何度も何度も挑戦してみたくなる。
なぜなら、『物質と記憶』とは身体と精神のことであり、それはどちらも「イメージ(images)」だと言っているからだ。このイメージという言葉に小林秀雄も惑わされたはずだ。イメージとは「表象(representation)」である。「あるものの代わりにある何か」のことである。文学、絵画、音楽もすべて表象である。世界との関係性のすべてが表象である。知覚も、記憶も、言語も表象である。運動野や感覚野のホムンクルスも、運動イメージも、空間も、行為も、意図も、すべて表象である。身体と精神の接点で「意識の泡」が生まれている。それがイメージであり、表象なのだ。そして、脳が損傷されると、イメージの想起が困難となり、表象は変質してしまう。ベルクソンは『物質と記憶』で、その謎に触れようと試みたはずだ。そんな直感がどこかにある。間違いなく、世界で初めて「イメージ」の秘密に挑んだ本だ。この本を解読すれば、脳障害の本質を異なる視点から理解したり、新しいリハビリテーション治療のヒントを得ることができるかも知れない。そんな期待がどこかにある。ベルクソンは次のように書いている。
ある体操を学ぶために、われわれは、われわれの目がわれわれに運動を外側から示すとおり、すなわち運動が遂行されるのを見ているとわれわれが思ったとおり、その全体を模倣することから始める。運動についてのわれわれの知覚は漠たるものであったが、体操を反復しようと試みるこの運動も漠然としたものだろう。しかし、われわれの視覚的知覚は一つの連続した全体の知覚であったのに、それに対して、われわれがそれによってこの全体のイマージュを再構成しようと努めている運動は多数の筋肉的収縮や緊張から構成されている。そして、われわれが筋肉的収縮や緊張について有している意識はそれ自体が、諸関節の多彩な働きから生じる多くの感覚を含んでいる。
それゆえ、イマージュを模倣する漠然とした運動は、すでにその運動の潜在的な分解である。それは、みずからのうちに、いわば分析されるのに必要なものを含んでいる。反復や訓練から生まれるだろう進歩は単に、最初に内包されていたものを引き出し、基礎的な諸運動各々に自律性(autonomie)を与えることに存していて、この自律性が正確さを保証するのだが、その際、運動の各々には、自律性のみならず他の諸運動との連帯も維持され、かかる連帯なしではどの運動も無用のものとなるだろう。
習慣は努力の反復によって獲得される、と言うのは正しい。しかし、反復された努力がつねに同じことを再現するのであれば、それは何の役に立つのだろうか。反復の真の効果は、まず分解し、次いで再構成し、そうすることで身体の知性に語りかけることにある。
反復は、新たに試みられるごとに、包み込まれていた諸運動を展開し、そのたびに、気づかれずに過ぎ去っていた細部に改めて身体の注意を促す。反復は、身体をして分割させ、分類させる。反復は身体にとって本質的なものを際立たせる。反復は全体的運動のなかに、その内的な構造を標示している数々の線を一つ一つ再び見出す。この意味で、身体が運動を理解してしまうや否や、その運動は覚えられているのである(p148-149)。
体操を「行為」に、習慣を「学習」に、反復を「訓練」に置きか変えれば、リハビリテーションの視点から解読できるように思う。
さらに、今夜は、次の記述が気になった。
諸物体は、鏡がそうであるように、私の身体によるあるべき影響を、私の身体に送り返している。これらの物体は私の身体の力能の増減に即して配列されている。私の身体を取り囲む諸対象は、それらに対する私の身体の可能的な作用を反映しているのだ(p14)。
私はイマージュの総体を物質と呼ぶが、これら同じイマージュが、ある特定のイマージュ、すなわち私の身体の可能的な作用と関係づけられた場合には、それらを物質についての知覚と呼ぶ(p15)。
・・・これはアフォーダンスのことだろうか???
もう眠くなった。『脳のイメージや表象能力が”行為の質(quality of action)”を決定している』と呟いておこう。認知神経リハビリテーションの本質は、『身体の知性に語りかけること』なのである。
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