認知神経リハビリテーション学会

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メッセージNo.15  「運動学習と運動療法」

 先日、土佐リハビリテーションカレッジで3年生を対象に講義した。一回3時間の授業を2回、合計6時間、「運動再教育(motor reeducation)」について実技をまじえながら学生に問いかける。彼らは何を考えるのか。講義の後、「運動学習と運動療法」をテーマにレポートを提出してもらった。その中に、印象深いコメントを記した学生がいたので紹介しておきたい。

 「私は小学生の時、鉄棒の逆上がりが出来なかった。そして出来るまでやりなさいと、放課後残され、繰り返し逆上がりをやらされた記憶がある。その時先生は、とにかく繰り返してやれば出来ると言ったが、結局できなかった。今思っても出来る訳がないと思う。私はやり方がわからなかったのだから。なぜあの時先生は、「やり方」を教えてくれなかったのか。「手を逆手に持って、思いきり地面を蹴ったら、足が一番上まで上がるちょっと手前で、反動で足が鉄棒を越えるようにするために、腹筋にグッと力を入れてごらん」と具体的に教えてくれれば、腹筋を使うことも、そのタイミングをつかむことも出来たと思う。その動作が出来ないということは、私のように使う筋肉が分からない。それをいつ使うのかかが分からない場合がある。そんな時は、100回繰り返してもダメだ。その筋肉に意識を向けること、それを使うタイミングを意識することを、繰り返さなければならない。それらが出来て、その動作が無意識に行なわれた時、運動は学習されたといえる。」

 この文章を読みながら、運動療法の授業は筋力訓練や動作訓練ではなく、この学生の疑問にいかに答えるかという所から出発しなければならないと、改めて思った。どのように動作を教えるのか。ここからすべては出発しなければならない。この疑問を常に考え続けるセラピストに育ってほしい。土佐リハでは、セミナーに「運動学習」という時間があり、学生はこの問題を学生の時から考えているようだ。

 さらに、この文章を読みながら、僕は自分の息子に「棒昇り」を教えた時のことを思い出す。息子は、棒昇りが何回繰り返してもできなかった。ある時、「セミのように棒に止れ」というと、昇れないものの棒にしがみつけた。次に、「カエルになって昇れ」というと、両足で踏ん張って少し上がれた。後は簡単だった。

 教える時、どのような言葉を投げ掛ければよいのか。手を上にとか足を前になどといった、外部観察による運動形態を教示しても効果はない。もっと本人の意識に働きかける、内観的なヒントになるような言葉で教示する必要がある。教えることがうまいセラピストは、臨床でどのような言語教示をしているのか。その時、こちらが考えて発する言葉ではいけない。どんな感じか患者に問いかけるべきである。そして、患者の言葉が一人称であるか三人称であるかを判断し、できるだけ一人称で答えるようにさせる。そして、その患者の使用する言葉を使ってセラピストが適切な言語教示を行うべきである。臨床場面は、患者と世間話をする場所ではない。セラピストの言語は、患者の注意能力を組織化するための強力な武器となる。

 第3回認知運動療法学会(京都)のテーマである「質的研究」には、こうした運動学習における言語教示の問題も含まれている。そして、実はそれが、チャールマーズの「意識のハードプロブレム」、「クオリア(感覚の質感)」、ヴァレラの「神経現象学」などの論議と同じ地平にあるということが明かにされるだろう。そこには、近年のEBMの潮流にみられるような、人間の営みを数値で解釈しようとする視点はどこにもない。人間の脳、あるいは自己、つまり思考は、意味に対応しており、数値ではなく、言語で組織化されている。運動も同じである。

2002.8.3 宮本省三

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