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先日、古本屋で渋谷陽一の「ロックミュージック進化論」という本を買った。1990年に発行された文庫本(新潮文庫)である。なぜ買ったというとレッド・ツェッペリンの名曲「天国への階段(ステアウェイ・トゥ・ヘブン)」の歌詞の翻訳が記されてあったからだ。高校生の時、よくこの曲を聴いていたが歌詞の意味は知らなかった。実は、数ケ月前、NHKのBSテレビでレッド・ツェッペリンの古いライブが放映された時、この曲が流れ、字幕を見てこの哲学的な歌詞に痛く感動し、自分の30年間の無知を恥じたが、残念ながら録画していなかったので歌詞の詳細を確認することはできなかった。だから、この本で歌詞を発見した時はとても嬉しかった。
人はかねてから言う
「輝くもの必ずしもすべて黄金にあらず」と
しかし、この世にただひとり
輝くものはすべて黄金であると信じ
そのすべての黄金をもって
天へのきざはしを買い求めている
女がいることを
おまえは知っているか
もし、すべての店が閉じていたとしても、
彼女はひとつの言葉によって
もとめているものを得る、ということも
というのも、店の壁にはたしかに看板があり、
そこには、それらしきことが書かれてはいるものの
彼女が求める確かさはそこにはない
いまも、小川のほとりの梢(こずえ)で
鳥がときどきうたうではないか
「われわれの思考とは、すべて、なにかのまちがいである」と
太陽が沈んでゆく方向をみつめるたびに
ぼくにはある想いがわきおこる
ぼくのこころは、こころ自身が
消えいりたい、なくなってしまいたい、と
悲痛なさけびをあげている
しかし、現実は、毎日毎日
もうろうとした意識の中で
幻想の林、幻想の煙の輪をみつめているのみ
いまもなお、たちつくし、みつめている者たちの声に聞きいるのみ
しかし、むかしから
これだけは確信している
ぼくらすべてが
あるひとつの音楽、あるひとつの音を
激しく、心から希求するなら
音楽こそが、われわれの論理となるのでは
そして、時代の夜明けが来て
これまでじっと立ち尽くしていた者のみが
その労苦がむくわれるのではないか
そのときには、すべての森に
笑い声がこだまするのではないか
この事を考える度に
ぼくの心はとけそうになる
何がきみをいらだたせようと
いまは、もう、ほっときたまえ
なにが起ころうとも
すべて歴史が大掃除をやってくれる
ざわめく風の中に
ざわめく音の中にこそ
あるいは、その音そのものが
天へのきざはしであったのだ
このことを
あの愛すべき女も知っているのだろうか
かったるい時間を旅するぼくらにとって
影はぼくらの魂よりも背が高く
むこうの方を
ぼくらが知っているあの女が歩いていく
いまなお彼女のみが
すべてが黄金に変わりうるという
よろこばしい無茶について確信を与えてくれる
もし、きみがハードに聞くのなら
聞こえるに違いない
すべてがひとつであり
ひとつがすべてであるとき
われわれは一個の岩であり
もはや、ゆらぐことはないと (岩谷宏 訳)
文中の「天へのきざはし」が歌のタイトル「天国への階段」の訳であるが、そんなことはどうでもいいだろう。
渋谷陽一は「すべての価値と論理が相対的である時、音楽こそが絶対的な価値となりうるのではないか。音楽こそが天国へのきざはしであるのではないか。それがこの曲のテーマであり、ロック全体のテーマである。この歌は一種の決意表明であり、出発宣言になっている。この歌詞以降のツェッペリンの音楽的実践は、この歌のメッセージを現実のものとするための試行錯誤ともいえる。」と書いている。
また、「ステァウェイ・トゥ・ヘブンは錬金術の発想を歌にしたもの」という解釈も可能である」。「ひとつがすべてであり、すべてもひとつだという考え方は錬金術の基本だ」と指摘する。当時、ジミー・ペイジはイギリス黒魔術のミサに熱心だったらしい。そして「現代の科学や、合理的なイデオロギーと呼ばれるものが、実は単なる党派性しか持ち得ず、相対的なものでしかない事は、多くの科学者や批評家が指摘している。つまり全ての思想はその党派性によって対等なのである。だから黒魔術に対する批判も、それが党派性による間は無効であり、何んの説得力も持ち得ない。それは選択の問題でしかない。」とも書いている。
だから、「われわれの思考とは、すべてなにかのまちがいである」ということなのだろうか。これは「人間の思考とは、すべてなにかのまちがいである」とした方がわかりやすい。確か、脳科学者のダニエル・デネットは「心はすべて幻想に過ぎない」と言っていた。思考、心、そして個人の「クオリア」もそうなのだろう。「われわれのクオリアとは、すべてなにかのまちがいである」と書くと、とても納得できる。
さらに、「理学療法士の思考とは、すべてなにかのまちがいである」とか、「作業療法士の思考とは、すべて何かのまちがいである」と書きたくなるのはどうしてだろうか。「認知運動療法の思考とは、すべてなにかのまちがいである」と思う日もいつか来るのだろうか。それとも認知運動療法こそが天国への階段だと思考しつづけるのだろうか。
思い出すのは、二年前、サントルソ認知神経リハビリテーションセンターで一緒に勉強したイタリア人研修生のヴァレリオのことである。若い、「ペルフェッティが恋人だ」というローマの理学療法士養成校を卒業してすぐサントルソにやって来た彼はロックが好きだった。
中学一年の息子が夏休みに日本からサントルソに遊びに来た時、記念にと、あの老人が枯れ木を背負って杖をついている姿が描かれた懐かしいカバー写真の、天国への階段が入っているツェッペリンのCDを息子にプレゼントしてくれた。
その後、息子とローマに旅した時、オリベスクの塔がそびえる夜のポポロ広場のテラス席で食事をしていると、一人の若いギタリストがやって来て、広場で「天国への階段」を歌い始めたのだ。
息子はそれ以来、ロック少年になった。
ヴァレリオは3年間サントルソで長期研修し、故郷のローマで今年の春から働き始める。彼の臨床への情熱から多くのことを学んだ。一度、ピンクフロイドがヴェネチアにやって来て、屋外でコンサートを開いたのだと嬉しそうに言っていた彼は、素晴らしい認知運動療法士になった。
僕は今こうして、深夜に、天国への階段を巡る、意味不明の認知運動療法についてのエッセイを書いている。
何が言いたいのか。
30年の月日を経て、「天国の階段に意味を与える」ことができたということである。
脳には、まだ意味を与えることができないまま眠っている世界が無数にあるということだ。
「われわれの思考は、すべて何かのまちがいである」と思考することで、認知運動療法を一歩進めることができるのではないか。勉強することは、まちがいを発見することである。勉強しなければ、自分の思考のまちがいに気づきない。これはカール・ポパーの科学論に似ている。この思考のまちがいとはペルフェッティ先生の言う「裏切られた期待」でもある。
つまり、リハビリテーションよ、「自らの無知の知を知れ」ということである。
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