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患者が「リハビリの先生」と言えばセラピストのことを指す場合が多い。セラピストとは理学療法士、作業療法士、言語聴覚療法士のことである。リハビリの先生達は、それぞれ理学療法、作業療法、言語聴覚療法を専門に勉強している。それは自明のことであり、セラピストは、ある療法の専門家として生きている。その事実を誰も疑わないし、そう信じ込んでいる。
冒頭のペルフェッティの言葉を「君たちは、作業療法を行うから、いつまでたっても作業療法士と呼ばれるのだ」とか、「君たちは、言語聴覚療法を行うから、いつまでたっても言語聴覚療法士と呼ばれるのだ」と置き換えてみても、多くのセラピストは「その通りだ」と言うしかないだろう。
気になるのは「いつまでたっても」という言葉である。この言葉には明らかに批判的な見解が込められている。文脈からすれば、親が子に「いつまでたっても精神的に成長しない」と叱ったり、社会人が「いつまでたっても世の中、何も変わらない」と嘆く時の、怒りに近い感情が含まれている。
この怒りに近い感情は、言葉を発している本人に取っては問題と感じていることが、言葉を投げかけられている者に取ってはどこにも問題がないという点に起因している。そこには埋めることのできない「深い溝」がある。間主観性的な「共感」が生じないのである。言葉を投げかけても、言葉を投げかけられた側のミラー・ニューロンが活性化しなければ、共感は生じず、脱コミュニケーションから断絶へと向かい、対話の糸がプチリと切れてしまう。
ペルフェッティが投げかけているのは、「君たちは理学療法、作業療法、言語聴覚療法をいつまで続けるつもりなのか」という問いである。この問いには3つの選択肢がある。第1の選択は「僕らは理学療法士、作業療法士、言語聴覚療法士として生まれ、生き、やがて死ぬ」と答える道である。第2の選択は「僕らは理学療法士、作業療法士、言語聴覚療法士として生まれ、それを進歩させ、次の世代に手渡す」と答える選択である。第3の選択は「僕らは理学療法士、作業療法士、言語聴覚療法士として生まれ、それを解体し、何か別のセラピストとなって再生する」と答える道である。
ここでセラピストが深く内省すべきは、これまでの教育、臨床、研究のすべて論議や提言が、第2の道を歩もうとする者から第1の道を歩んでいる者への問いかけであったという点である。投げかけられる問いは、いつも古典的・伝統的な理学療法、作業療法、言語聴覚療法では不十分であり、より進歩的な治療を患者に提供することが必要であるという主張が繰り返されて来た。しかし、その本質は保守的な立場であり、自らが理学療法士、作業療法士、言語聴覚療法士であることにある種の愛情や誇りを持ち、そうして生きることを否定するものでは決してなかった。
これに対して、第3の道はきわめて革新的かつ創造的な選択である。これまでのリハビリテーションの歴史において誰も真剣に提言しなかったため、タブーとされることすらなかった斬新な発想である。
この背景には、これまでの理学療法、作業療法、言語聴覚療法と呼ばれる治療は、既に脳障害や運動麻痺に敗北しており、それは20世紀初頭から100年(日本の場合は約40数年)にも及ぶ臨床の歴史が逆に証明しているとする考え方がある。どのような医学であれ、究極的には敗北の医学であり、運動麻痺を完全に回復させることは困難であると仮定したとしても、これだけ長いリハビリテーション医学の歴史における教育、臨床、研究の成果が現状の治療効果であれば、その発展や進歩に期待する以前に、どこかに本質的な限界を生み出している根本問題が潜んでいると考える方が妥当である。
医学史研究家として高名なバイロン・グッドによれば、「医学を研究することは、新しい認識の仕方を獲得することである(Good,1999)」という。基礎研究や臨床研究によって新しい知見や発見がもたらされるのなら、それによって新しい認識が得られるはずである。それによってより効果的な治療法が生み出されるはずである。しかし、そうした進歩を実感しているセラピストはほとんどいないはずである。そして患者は、今日も理学療法、作業療法、言語聴覚療法と呼ばれる治療を受け、脳障害や運動麻痺に苦しみつづけている。
どこに根本問題があるのか。それは明らかである。「いつまでたっても、理学療法を、作業療法を、言語聴覚療法を患者に提供しつづけるから」である。理学療法は物理的刺激を用いる治療である。人間は物理的刺激のみで治療できない。作業療法は作業活動を用いる治療である。人間は作業活動のみで治療できない。言語聴覚療法は言語聴覚系に働きかける治療である。人間は言語聴覚入力のみで治療できない。行為を生み出すためには、脳が行為を「表象(representation)」する必要がある。行為の脳内表象には、行為の1)外部・内部観察、2)模倣、3)運動イメージ、4)内言語による指示、5)外言語による記述が不可欠であるが、各療法にはそれらがまったく学習理論として組み込まれていない。各療法の根本規定からして、脳の表象の産物である思考や認知を改変し、適切な大脳皮質の生物学的変化(可塑性)を生み出すことはできないのである。
生きる人間の「脳のシステム」は、特にその「学習メカニズム」は、理学療法、作業療法、言語聴覚療法に区分して治療できるものではない。各療法の区分は、80年近く前のアメリカで、当時の医学的思考と患者のリハビリテーションの必要性という緊急性から便宜的に区分されたものに過ぎない。それがセラピストの病院内での地位保全や労働的価値の保証という社会的要因によって定着したに過ぎない。各療法の世界的な協会や学会が存在し、教育システムや臨床区分が構築されているからといって、それが患者の幸せに貢献していると断定すべきではない。その弊害を思考するのが、真の専門家集団である。
考えてみれば、医師は医師であり、医師には脳外科医になるのか、整形外科医になるのか、内科医になるのか、精神科医になるのかの自由は保障されているので、セラピストもセラピストであり、一定の教育を受けた後、理学療法士になるのか、作業療法士になるのか、言語聴覚療法士になるのかの自由は保障すべきだと納得する者がいるかも知れない。しかし、ここで主張しているのは、そういうことではない。リハビリテーション治療が必要な患者にリハビリテーション治療を提供するセラピストは一つの職種でよいということである。そのためにセラピストの教育年限が現状の3−4年から6年になろうとも、一人の患者が3人の職種の異なるセラピストから異なる理論に基づく治療を受けるよりも、一人のセラピストから質の高い治療を長時間受ける方がよい。一人の患者が一貫性のないバラバラな思考や理論に基づく治療を短時間受けて困惑し、学習する機会を失うことの危険性に対し、現状では誰も責任を取らないし、取れないのである。
この現状のリハビリテーション医療における治療構造が、患者の機能回復の可能性を著しく妨げている可能性がある。ある一人の患者に3人の内科医が異なる薬を処方しているようなものである。理学療法、作業療法、言語聴覚療法は、患者の脳障害や運動麻痺の回復、そして日常生活動作能力の向上という共通の目的をもっており、治療手段は違うが専門性が異なるわけではない。各療法の専門性と医師における外科医や内科医の専門性とは意味が違う。さらに、その治療手段そのものが進歩できないという限界に瀕している。政府はこの治療構造の改革が必要だとは考えないのだろうか。既に、老人保健施設や介護保険による在宅リハビリテーションでは、理学療法、作業療法、言語聴覚療法の区分は意味をなさなくなっている。パワー・リハビリテーションと呼ばれる人間を筋肉の塊としか捉えない運動学習を無視した方法が蔓延する理由もここにある。
身体の機能回復には脳の認知過程(知覚、注意、記憶、判断、言語)の活性化と組織化が不可欠であるという視点に立脚した、行為を創発するための「脳のリハビリテーション」を展開できるセラピストへの一本化が急務である。脳卒中のリハ、脳性麻痺児のリハ、脊髄損傷のリハ、整形疾患のリハといった疾患別の区別も時代の流れに対応しているとは言えない。生きる人間のリハビリテーション治療とは、そうした単純なものではない。新しい時代のリハビリテーションは、人間の複雑な「学習する脳のシステム」に対応する可能性を有しているものでなければならない。患者の「脳の中の身体」を治療するセラピストでなければならない。そのためには医学の知識のみでは不十分である。人間の意識経験にまで働きかけて機能回復を図るためには、新しい脳科学や認知神経科学の知見から身体哲学、発達心理学、教育学、言語学、文化人類学、神経工学、文学、芸術まで、広く深淵な人間世界の知見を学際的に吸収しながら、新しいリハビリテーション治療とリハビリテーション文化を再構築する必要がある。それが新しい時代を生きるセラピストの責務である。
提言したいのは、認知神経リハビリテーション(認知運動療法)を選択するということは、究極的には第3の道を歩もうとする挑戦に他ならないということである。現在の理学療法、作業療法、言語聴覚療法という名の学校教育、国家試験、免許制度、医療保険制度、臨床、研究のすべてを一度「解体」すべきだと思う。セラピストは、一つの職種でよい。一人の患者にいつまでも理学療法士が理学療法を、作業療法士が作業療法を、言語聴覚士が言語聴覚療法を行っている限り、リハビリテーションの歴史は変わらない。
世界に先駆けて日本のセラピストが、人間の心と脳と身体の機能回復に挑戦しようとする時、真のリハビリテーション・セラピストが誕生するだろう。それが患者と共に歩むべき道だと信じている。全国の病院のリハビリテーション室に「脳の訓練室」をつくってほしい。スペースがなければ、物理療法室や使わなくなった水治療法室を認知運動療法室に変えればよい。この簡単なことに(実現しようとすれば予想以上に強固な反対を受けるだろうが断絶ではなく対話が必要である)、リハビリテーション・セラピストの近未来がある。
理学療法士、作業療法士、言語聴覚療法士の再生(ルネサンス)は、学会や書籍や文献の世界で生じるものではない。日々を生きるリハビリテーション訓練室の中で起こる。
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