Home > 会長からのメッセージ目次 > メッセージNo.39
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僕の通っていた小学校には特殊学級というのがあった。その教室の中で知的な発達障害児にどのような教育が行われていたかについては何も知らない。
秋の大運動会、多くの父兄が見守る100メートル競走。彼は運動麻痺はないのに身体をピョコ・ピョコと左右に揺らしながら走るので6年間いつもビリだった。学校の行き帰りもそのように歩いていた。彼の家は農業を営んでおり、両親は彼に農作業を手伝わせていた。ビニール・ハウスで育てたスイカを嬉しそうに両手で持って車の荷台に運んでいる彼の姿を休日に何度か目撃した記憶がある。
先日、近所の道を歩いていると、遠くから身体を左右にピョコ・ピョコと揺らしてこちらに向かってくる中年の男の姿が見えた。父親は自転車に乗って笑っており、彼は運動会の時と同じように自転車の後ろを走っていた。それでも父と子は幸せそうに見えた。すれ違いながら、もう小学校の頃から40年の年月が流れたのだと思った。
一週間後、今度は空港でまた彼と偶然出合った。彼は空港のロビーから身体をヒョコ・ヒョコと揺らしながら、車椅子に乗った母親を押して来て、タクシーに乗せようとしていた。母と子もまた幸せそうに見えた。その光景を見ながら、意味もなく、彼ら一家のことはまったく知らないのだが、それでいいのだろうという気がした。
ただ、それでいいのだが、一つだけ、走馬灯のような年月と現在との記憶をつなぐ、彼に対する僕の視線について記しておきたい。つまり、僕が彼の何を見ているのかという視点についてである。
僕は彼について反芻し、自分の視線をいつもある一点に向けていることを自覚している。彼は小学校の時も今もズボンのベルトが異常に長い。そのことを小学生の時も、先日道ですれ違った時も、空港で見かけた時も思った。普通、臍の下を時計の12時だとすると、ウエストをぐるっと回したベルトの先端は11時の長さで終る。つまり、中央から10cmくらいの長さが標準である。しかし、彼のベルトの先端は9時を越えている。ベルトがあまりにも長過ぎる。中央を過ぎて30cmはある。
彼は、この40年間いつも変わることなく長過ぎるベルトを締めて生きてきた。それはそれでいいのかも知れないが、それでは女の子にはモテないだろうと思う。誰か「君のベルトはあまりにも長過ぎる」とは言わなかったのだろうか。両親は言わなかった。結婚など考えなかったのだろうか。このベルトの長さが変わらないことが、彼の脳の認知発達レベルを反映しているように思われてならない。それはそれでいいのだと思いながらも、どうしても僕の視点は彼のベルトの過剰な長さから離れない。
ベルトの長さは、親が調節して切れば済むことである。だが、それを親がしなければ、子どもは気づかない。長くても機能的には何も問題ないのだから。「切るべきか、切らないべきか、それが問題である」と考えるべきか、それともそんなことは問題ではないのか。
そして、僕は思う。「この視点はいったい人間の何を見ているのだろうか」と。それでいいのだと思いながら、どうしてベルトの過剰な長さを注視してしまうのだろうかと。
ベルトの過剰な長さは客観的な数値で表すことができるが、その過剰な長さの意味を彼の脳は認識していない。なぜ?
そういえば、ヘミングウェイの短編小説に「何を見ても何かを思い出す(I Guess Everything Reminds You of Something,1987)」というのがあった。
僕は、本や文献で「発達障害」という文字を見るたびに、彼のベルトを思い出す。
(現代思想vol 35 6月号,2007:特集「発達障害」を読んだ後に記す)
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