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リハビリテーション身体論
誰が書いたかは知らないが『リハビリテーション身体論(青土社,2010)』というタイトルの難解な本がある。夜、ベットの中で久しぶりに読むと僕が知っていることしか書いていない。その第9章に「リープマンとリハビリテーション」について色々と書いてあるのだが、「随意運動の階層性」を説明する「複合された行為、複雑な動作、単純な運動」という言葉を再発見した。
この言葉は100年以上も前に失行症(apraxia)を発見したドイツの神経学者リープマンの論考からの引用である。ところが、リープマンの翻訳本を調べてもどこにも発見できない。これはペルフェッティの共同研究者であるピエローニとフォルナーリが「失行症に対する認知運動療法」の研究を進めていた頃にリープマンの何かの論文から引用したものである。それは『認知を生きるということ(小池美納訳・沖田一彦監訳,協同医書出版社,2003)』に記載されている。
実は、これは2003年に京都で開催された「第3回認知運動療法学会」における招待講演の記録である。学会後、ピエローニ先生やフォルナーリ先生と一緒に京都や奈良を観光した記憶が蘇ってくる。ピエローニ先生は元気だろうか? ピエローニ先生は失語症、失行症、失調症といった片麻痺以外の病態についてペルフェッティと共同研究する不思議な愛すべき人だ。ここでは『リハビリテーション身体論』の第9章「リープマンとリハビリテーション」から部分的に引用する。
[複合された行為、複雑な動作、単純な運動]
リープマンは「行為過程の図式(随意運動の発現前に外部環境の知覚、行為の成功への期待、運動イメージ、運動形式の観念的プログラムなどの脳内過程を必要とする概念モデル)」や有名な失行の発現メカニズムを説明する大脳皮質機能局在間の神経線維連結の「離断症候群(水平図式モデル)」といった考え方を提示している。しかし、ペルフェッティとフォルナーリによれば、リハビリテーション治療に有用なのはリープマンの「随意運動には三段階のレベルの運動が存在し、それぞれのレベルにおいて運動制御のための知覚情報が異なる」という考え方である。彼が提言している三段階の運動レベルとは1)最高位の「複合された行為」、2)中位の「複雑な動作」、3)下位の「単純な運動」である。
最高位の「複合された行為」とは、たとえばコップに水を注ぐ、ローソクに火を灯す、バラの花を摘むといった行為である。最高位の「複合された行為」は中位の「複雑な動作」によって構成されている。たとえばコップに水を注ぐという「複合された行為」であれば、水差しのふたを取る、水差しの首の部分を掴む、水差しを傾けると同時にもう一方の手でコップを持つ、コップを必要な位置に持ってゆくといった一連の「複雑な動作」から構成されている。また、コップを持つという中位の「複雑な動作」は、手を開く、適切な強さで手指を使ってコップを包み込む、テーブルの上から手を持ち上げるといったいくつかの下位の「単純な運動」から構成されている。中位の「複雑な動作」のそれぞれにも、下位の「単純な運動」一つ一つにも何らかの目的がある。どの運動レベルにおいても、脳では情報が制御されており、中枢神経系に対してその運動が正確に遂行されたかどうかが伝えられる必要がある。この運動を制御する情報はそれぞれの運動レベルにより異なる。「単純な運動」の場合は主に四肢の「運動覚情報」、「複雑な動作」の場合は主に「視覚情報」、「複合された行為」の場合は主に「言語情報(内言語を含む)」により運動制御される。
・複合された行為・・・言語情報
・複雑な動作・・・・・視覚情報
・単純な運動・・・・・体性感覚情報
ペルフェッティとフォルナーリは、これをアノーキンの「行為の受納器(アクション・アクセプター)のモデルと比較している。行為の受納器とは、まだ実行されていない行為の結果を予測する機構(知覚仮説・運動イメージ)が前頭葉の運動前野や補足運動野で一時的に想起され、それが実行された行為の結果の求心性情報(頭頂葉連合野)とマッチング(比較照合)されるというものである。リープマンとアノーキンのモデルを対応させてみると、リープマンの三段階の運動レベルに対応してアノーキンの三つの行為の受納器があると解釈できる。この点についてそれぞれの運動レベルで考えてみよう。
まず、最高位の「複合された行為」のレベルにあたる予測機構をリープマンは「行為過程の図式」において「成功への期待」と呼んでいる。また、この予測機構と同時に運動プログラム機構が存在し、リープマンはこれを「運動形式の観念プログラム」と呼んでいる。これは「複雑な動作」をどのような順番で実行していけば行為に至るのかをプログラムする一種の運動の企画書であり、その内容は言語によって解釈することが可能である。中位の「複雑な動作」レベルでの予測機構をリープマンは身体の運動学的位置に基づく「空間時間プロジェクト」と呼んでいる。空間時間プロジェクトは、どのような下位の「単純な運動」を組み合わせることによって期待される身体の運動学的位置を満足させることができるかについての運動の企画書であり、その内容は視覚的に解釈することができる。下位の「単純な運動」のレベルでも予測機構と運動プログラム機構が存在する。つまり、期待される四肢の運動覚と実行後の運動覚とのマッチングが行われる。そして、このレベルにおける運動感覚情報の組織化についてリープマンが名付けたのが「運動感覚のエングラム」という言葉であり、脳内での単純な運動レベルの予測機構(四肢の運動イメージ)と運動プログラムの形成が運動学習にとっての必須条件となる。
リープマンは古典的な運動野が随意運動を司る最高中枢であるという当時の考え方に対し、脳は運動覚、視覚、言語情報によって運動の予測機構や運動プログラム(アノーキンの行為の受納器)を形成し、さらに行為の結果を予測する働きを持っていると推察した。それが彼の思考が他の神経学者に先んじている点であり、リープマン―アノーキン―ペルフェッティと繋がる糸であり、失行症に対する新しいアプローチを生み出す理論根拠のルーツなのである。
失行症と発達障害児の模倣障害に関係づける
ペルフェッティとピエローニは、リープマンの「随意運動の階層性」をロシアの神経生理学者アノーキンの「行為受納器(運動前野や補足運動野の運動プログラムの予測機構=運動の意図、運動イメージ)の階層性に結びつけている。
ペルフェッティは「行為は意図に始まり、結果の確認に終わる」と定義しているが、随意運動の意図とは「行為受納器(アクション・アクセプター,運動意図、予測機構、運動プログラム)」の想起のことであり、行為受容器からの情報が運動野に送られて運動指令が起こる。また、同時に行為受納器からの遠心性コピー(予測的な随伴発射=運動イメージ=知覚仮説)が頭頂葉や小脳に送られて「予測と筋収縮後の感覚フィードバック情報」を比較照合して結果が確認される。
そして、行為受容器(運動プログラム)の改変のためには、行為受納器に知覚情報を伝える「頭頂葉連合野」の視覚、聴覚(言語)、体性感覚の感覚情報変換(統合)が必要であるが、それが失行症では障害されると解釈し、その同種・異種情報変換を組み込んだ「失行症に対する認知運動療法」がつくられた。
事実、失行症では同種・異種感覚情報変換できない。そのために「模倣障害(視覚−言語−体性感覚間の情報変換障害)」が出現する。それが他者の行為の解読の困難さ、意図や運動プログラムの変容、予測メカニズムの欠損などを引き起こし、行為の産出のエラーとして出現する。道具使用のエラーも同様に、この頭頂葉連合野―前頭葉高次運動関連領野のループの問題によって発現すると考えてよいだろう。また、失行症では行為の記憶がイメージ想起できない。だから、運動イメージの想起が困難である。
また、模倣障害は「発達障害児(Dyspraxia=運動統合障害)」でも出現し、それは「他者の心を推察する能力(マインド・リーディング)」や「心の理論」の障害という「社会脳」の発達障害にまで拡張されている。
その対人コミュニケーション障害を脳科学ではリゾラッティの「ミラーニューロン・システム」やガレーゼの「身体性シミュレーション仮説」で説明することが多い。しかしながら、サルではなく人間の場合、模倣障害には「形態模倣」と「意図模倣」があり、社会脳の発達障害では「意図模倣」がより問題となる。また、運動統合障害児では「行為の記憶」が上手く形成されない。だから、状況に応じた適切な運動イメージの想起ができない。
行為の記憶に現実の知覚を重ね合わせる
失行症や発達障害(運動統合障害)の認知神経リハビリテーションにおいては、リープマンの「複合された行為、複雑な動作、単純な運動」の意味をよく考えてみる必要がある。そして、それは「行為の記憶」とも関係している。
アノーキンによれば、行為受納器には「求心性情報の統合(頭頂葉連合野の異種感覚情報変換)」を介して情報が送られてくるのだが、そこには「記憶」も含まれる。つまり、「記憶」も情報として行為受納器に送られて、随意運動(複合された行為、複雑な動作、単純な運動)の発現に寄与する。
最近の認知神経リハビリテーション(認知運動療法)では「行為間比較」が展開されている。片麻痺患者に「行為の記憶の想起」を求め、「現実の行為」や「訓練としての行為(認知問題としての課題)」との関連づけや比較を要求する。訓練は「意図に始まり、結果の確認におわる」点で行為と解釈する。そして、行為とは「知覚する行為」のことだ。
この時、患者は「行為の記憶の知覚」と「訓練としての行為の知覚」を、脳の中で重ね合わせようとする。この脳の中での「知覚の重ね合わせ(一致する感じ)」とは何か? その「知覚の重ね合わせ」は患者個人の「一人称の世界」で一致させるしかない。だが、セラピストは、そこに介入してゆく必要がある。
リープマンの「随意運動の階層性」としての「複合された行為、複雑な動作、単純な運動」は、「行為の階層性」としての「複合された行為、複雑な行為、単純な行為」と解釈する必要がある。
なぜなら、人間の場合、たとえば他者に「バイバイ」と手を振る時、背臥位でも、座位でも、立位でも、歩きながらでもできるし、両手でもできるし、片方の肩を大きく動かして意味を伝えることができるし、小さく動かしてもできるし、手関節を動かしても、手指を軽く動かしても伝えることができる。もちろん、自閉症児のように手掌を自分の方に向けてはならないが、いずれにせよ、それは「単純な運動」に相当する「単純な行為」である(訓練もまた「単純な行為」に相当する)。
「バイバイ」は、自己の意図ある行為であり、他者の「バイバイ」という結果を確認して終わる。その時、自己の身体の動きと他者の身体の動きが一致している。だから、心が通じ合う。だが、それがいつ、どこで、どんな時、どんな状況で、誰に対して、なぜ、どんな気持ちで「バイバイ」したかの記憶を想起すると、それは「複合された行為」にも思えてくる。
さらに、「道具使用」の場合はどうなのか。これについても考察する必要があるだろう。余談だが、自閉症児の身体に他者が道具(物体)で接触させると、道具だけに意識の志向性を向けことがある。だが、その道具を持っている他者には意識の志向性を向けない傾向にある。それでは意図的な対人交流の記憶は歪んでしまう。これは外部世界の「知覚のゲシュタルト」の変容を意味する。社会的な行為の変質を招く。その根底に「身体記憶」の問題があり、その結果として「道具使用」や「他者交流」の問題が発生しているのかも知れない。
近年、失行症を道具とのコミュニケーション障害、発達障害(運動統合障害)を対人コミュニケーション障害と捉える傾向が強いが、それは短絡的で問題の本質を見失う可能性がある。つまり、問題の本質は「自己の身体記憶が形成できない」点にあるように思える。
いずれにせよ、リープマンの随意運動の階層性を「行為の身体性」、「行為の意味」、「行為の解読と産出」、「行為の模倣」、「道具使用」「行為の知覚」からだけでなく、もっと「身体記憶」や「行為の記憶」に関係づけて考えてゆく必要がある。
リープマンの随意運動の階層性(複合された行為、複雑な動作、単純な運動)は「行為の記憶の階層性(複合された行為、複雑な行為、単純な行為)」と解釈すべきである。つまり、「訓練としての行為」は、複合された行為、複雑な行為、単純な行為の各レベルと「知覚の重ね合わせ」ができる。この関係づけや比較を無視して「行為間比較」を理解することは難しい。また、「行為の謎を解く」ことはできない。
メルロ=ポンティとベルクソン
そして、メルロ=ポンティのことを考えた。メルロ=ポンティは『知覚の現象学』で外部世界の「知覚のゲシュタルト」を内部世界の「肉のゲシュタルト=身体図式」に置き換えたのではないか。それによってフッサールの「キネステーゼ(私は~することができるという意識)」を解釈しようとしたのではないか。そして、その思考はベルクソンの『物質と記憶』に由来しているのではないか。
行為の記憶の中にはいつも私の身体がある。その「私の肉のゲシュタルト=身体記憶」が脳の中で行為記憶を生成している。その行為記憶は三人称的な外部世界での「私の物質的、客観的な経験」であると同時に一人称的な内部世界の「私の精神的、主観的な経験」でもある。つまり、身体記憶に根ざした行為記憶の両義性としてキネステーゼが形成される。
だが、ベルクソンは、イメージとしての「記憶」を「エピソード記憶」と「運動記憶」に区別している。あるいは記憶と現実の知覚をつなげるのは「身体図式(運動図式)」だと言っている。この身体図式(運動図式)は医学系のヘッドの「身体図式」とはまったく異なる概念である。それについては守永直幹による『未知なるものの生成−ベルクソン生命哲学.春秋社,2006』がとても参考になる。
さらに、ベルクソンは、「純粋記憶」というものがあり、それは空間性ではなく時間性だと言っている。イメージとしての記憶を生成する背後に持続する純粋記憶を想定している。これは超越的なもので、意識することはできない何かだ。メルロ=ポンティはベルクソンの純粋記憶をどのように解釈したのだろうか。
一方、現代科学では「顕在記憶」と「潜在記憶」は区別されている。つまり、「エビソード記憶」と「運動記憶」は区別されている。だが、「エピソード記憶」の中には「行為」もある。行為の記憶、行為の感覚、行為の空間性、時間性、強度が「運動記憶」だとすれば、それは「エピソード記憶」に含まれる。無意識的に自由に運動することを可能にしている能力(作能)としての、行為を背後で支えている記憶が「運動記憶」だとしても、それを「エピソード記憶」と区別することは間違っているのではないか。行為の記憶は「身体に根ざした記憶」であり、すべての記憶の背後には身体記憶としての「私の身体」があるのではないか。・・・よくわからない。
『脳のなかの身体』とは、行為の記憶のことだ
行為の記憶は脳の産物だ。脳損傷後の片麻痺患者にも行為の記憶は残っている。だから、行為の記憶は認知神経リハビリテーションの「行為間比較」にも深く関係している。もちろん、「行為間比較」では「行為の記憶」のイメージやエピソードや物語を求めて意識化させる。顕在記憶の知覚と訓練の知覚との「知覚の重ね合わせ」を重視する。
また、人間の行為の意図の想起をメルロ=ポンティは「運動主体性」と呼んでいる。この「肉の主体性(動きの自発性)」の記憶の謎がヴァレラの「オートポイエーシス」やギブソンの「アフォーダンス」めぐる論考の中核にあるように思える(河本英夫や平井靖史らの本を参照のこと)。
さらに、もう一つの行為の記憶を思考してゆく方向性として、ベイトソンの情報(差異)を単位とする論議があっていいようにも思う。僕はペルフェッティ先生に、行為を生み出すのは「脳の情報(差異)をつくる能力だ」と教えられた。行為の記憶の中にも情報(差異)が満ちている。それは訓練の情報(差異)と比較できる。
最後に、「脳のなかの身体」とは、「行為の記憶」のことだと呟いておこう。
そんなことを考えながら、『リハビリテーション身体論』のページを閉じ、今夜もベルクソンの『物質と記憶』を読み始めたが眠ってしまった・・・。
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