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村上春樹をめぐる国際シンポジウムが開催されていた(2006年3月26日,東京大学駒場キャンパス)。柴田 元幸 (東京大学教授)、沼野 充義 (東京大学教授)、藤井 省三 (東京大学教授)、四方田 犬彦 (明治学院大学教授)の各氏と多数の外国人研究者が出席している。
学生時代、愛媛県の八幡浜市民病院に臨床実習で行った時、彼のデビュー作「風の歌を聴け」を読んだ。それから30年近くが過ぎ、2005年にイタリアのサントルソ認知神経リハビリテーションセンターで研修した時、近所の書店で吉本バナナと並んで彼の「ノルウェイの森(イタリア語のタイトルはトウキョー・ブルース)」が売られていた。今やまさに世界的な作家であり、ノーベル賞まで噂されている。そう言えば、センターの医師であるドクターナポリに日本文学は誰を読めばよいかと尋ねられ、三島由紀夫、谷崎潤一郎、村上春樹の名を告げると、数日後に「村上は素晴らしい」と話しかけてきたことがあった。イタリア人の中年医師に村上春樹のあの「喪失感」がわかるのかどうか疑問に思ったが、これだけ世界中で読まれているということは、文化の違いを超えたコスモポリタンな文学として受け入れられているのだろう。
国際シンポジウムでは、アメリカ人作家のリチャード・パワーズが「世界は村上文学をどう読むか」と題して基調講演している。そして、その内容が脳科学の進歩と結び付けられておりとても驚いた。以下に抜粋して引用する
世界は村上文学をどう読むか アメリカの作家による基調講演
『ハルキ・ムラカミ−広域分散−自己鏡像化−地下世界−ニューロサイエンス流−魂シェアリング・ピクチャーショー』
リチャード・パワーズ 柴田元幸訳 『新潮』2006年5月号からの抄録
ミラー・ニューロン
今から約10年前、イタリアのパルマの研究所で、ジャコモ・リツォラッティの主導のもと、国際的なニューロサイエンティストの一団が、心のはたらきをめぐる、大きな発見に行きあたりました。サルが腕をのばして何か物を動かそうとするたびに、脳の運動前野にあるひとつのニューロンが信号を発していることをつきとめました。サルのうちの一匹が、腕は止まっているのに、信号を出し始めました。実験をしている人間がその物体を動かそうとして腕を伸ばしたときに限って起こることを突き止めました。このメカニズムを、リツォラッティたちは「ミラー・ニューロン」と名づけました。
脳のなかの、身体的な行為を司る部位が、イメージを作る営みにも駆り出されています。
イメージングと脳波図を通して、サルのみならず人間にもミラー・ニューロンがどっさりあることが判明しました。ミラー・ニューロンのシステムが行うのは、運動を監視し実行することだけではありません。さらに向こうまで触手をのばし、より高次元の認知プロセス全体に忍び込んでいるのです。人間のミラー・システムは、言語の処理を司るいわゆる「ブローカ野」の中もしくはその近辺に見つかりました。どうやら、何かを言葉で言い表すことによって、その言い表された何かが、なぜか他人の頭のなかで再構築され、存在するに至るらしいのです。そうしたシンボル上の再構築によって引き起こされる生理的反応とほぼ同じらしいのです。見ることと為すことを結びつけているニューロンが、相互にシンボルを作りあう回路にあっても、口にされたメッセージの送り手と受け手を結びつけているようなのです。
ミラーリングがさまざまな高次元の認知機能に一役買っていることが見えてきた。言語使用、学習、表情の解説、危機の分析、相手の意図の理解、感情の認知、適切な反応の設定、心をめぐる理論の発達、社会性の形成。行為を実行することと、想像すること、両者はもはや別個のプロセスではなく、同じニューロン回路の、二つの違った現れ方にすぎない。(ジョン・スコイルズとドリオン・セーガンの言葉)
いくつかの調査においては、何かを実際に見るときよりそれを想像するときの方がより多量の血液を使っている。視覚能力・運動技能を再現することが、思考することの根底にあるのだ。運動を想像した人々のグループは力が22%増したのに対し、実際に運動した人々は30%増すに止まった。(ジョン・スコイルズとドリオン・セーガン「アップ・フロム・ドラゴンズ」)
村上春樹が一連のインタビューにおいて、彼自身の小説に満ちている夢の産物や無意識の風景をどう想い描いているかに耳を傾けてみてください。
僕たちは自分のなかにいろんな部屋を持っています。その大半を僕たちはまだ訪れていません。でも時おりそこへの通路が見つかることがあります。不思議なものがいろいろ見つかります。古い写真、絵、本それらは僕たちのものなのに、初めて見つけたものなのです。セックスは霊のなかへ入ってゆくための鍵です。セックスは目ざめているときに見る夢のようなものです。夢というのは集合的なものだと思います。自分のものではない部分も夢にはあるのです。(マット・トンプソン「捉えがたきムラカミ」)
共同体に属す夢。そこにはわれわれが相続した他人の所有物があって、われわれはそれを探求し発見しなくてはならない。何十年か前だったら、こうした考え方を系統立てて記述するとすれば、その最良の記述は、ユングの言う集合無意識のようなものになっていたかもしれません。事実、ごく最近まで、個人の自己が巨大な、共有された時空間の上に、人間的なものすべてを素材として縫いあわされているということを述べるにあたっては、ユング心理学はそのもっとも包括的な記述方法でした。しかし今日、ループする共有された回路でミラー・ニューロンが活動し、モノを動かすことと物のイメージを作ることの境界もぼやけてきたなか、人間が共有する、心の地下の真実を解き明かすいっそう豊かな記述に科学は行きあたったように思えます。そうしてそうした真実こそ、われわれが村上春樹を読むとき、さまざまなシンボルによって出来ているそのミラー・ワールドから文字通り生まれてくる真実なのです。
<脳の十年(ディケイド・オブ・ザ・ブレイン)>と言われる1990年代は、脳に関して、村上作品のどのプロットにも負けぬほど奇怪で驚くべき発見や理論を数多く生みました。リツォラッティの<ミラー・システム仮説>は脳科学におけるそうした革命の頂点を成すと言ってもよいでしょう。かって心とは、単一のまとまりでした。それがやがてフロイト、ユングら深層心理学者によって二つ、三つ、もしくはそれ以上の、かならずしもアクセスが容易でない要素に分解されたわけですが、それでも一つひとつの部分は依然おおむね一元的なものでした。それがいまや、心は何百もの分散したサブシステムに分解され、それら一つひとつが、ゆるやかに絡みあった連合関係を成して、それぞれ個別に信号を発しているのです。
リツォラッティによるミラー・ニューロンの発見が示唆しているさらに重要な点は、一人の人間の自己というゆるやかな議会は、それが触れあうほかの人間の自己たちを時々刻々アップデートし、それらほかの自己たちによってアップデートされてもいるのです。
この複合的、多方面的な鏡の館にあっては、ネットワークのどの部分に損傷が起きても、われわれが即興で作り続ける自己のありようががらりと変わってしまいかねません。たとえば、脳内の前部帯状回と呼ばれる部位に両側性損傷が生じると、その人物は現実と想像を区別する能力を失います。単に最近誰かと話題にしただけの場所へ現実に往ったと思い込んだり、夢のなかで起きただけのことを実行したと信じたりするのです。しかし、新しいニューロサイエンスが急いで指摘するところによれば、脳の損傷から生じるこうした精神状態は、普通の人間の意識においても、より弱い、一時的な形で生じうるのです。
<脳の十年>がはじまるずっと前から、村上春樹はこうしたことを知りつくしていました。彼の登場人物の多くが、何らかの情景のなかをさまよいながら、自分はいまどこかの外的現実のルールに従って動いているのか、それとも心の中で自らのルールを組み立てているのか、判別できないのもまさにそのためです。
現代のニューロサイエンスから見れば、心の中のマップと外的現実の境界は、そのつどとりあえずの多面的な交渉から生ずるものにすぎず、境界線のどこがいつ破れてもおかしくない状態にあります。脳の二つのサブシステム間のつながりに障害が起きれば、自己の成り立ちそのものが揺らいでしまい、その結果、どれひとつをとっても村上作品のプロットとして通用しそうな徴候を大量に生み出しかねません。見慣れた事物を見ても、それが何なのか特定できなくなる。オレンジがサクランボより大きいのか小さいのかがわからなくなるなどです。
おそらく今日活躍している小説家の誰にもまして、分散しモジュールに分かれた脳があらわにするパラドックスを村上春樹は本質的に理解し、作品中で再現しています。すなわち、意識というものがまっとうで、堅固で、予測可能であるのは、脳がわれわれに対して時々刻々為していることをわれわれが自覚せずにいる限りのことでしかないのです。
総体として見るなら、村上春樹の作品は、日常からの逸脱という出来事の執拗な探求にほかなりません。世界は見かけほど単純ではないこと、200のモジュールに分かれた脳の騒々しい不協和音が見せかけているほど単純では断じてないことを、彼の書くセンテンス一つひとつが知っています。そして何よりも奇怪なのは、われわれの脳が、自らの複合的プロセスから投げてよこされたものを、片っ端から平然と、一貫したストーリーとして捉えようとすることではないか−そう彼の物語は語っているように思えます。
村上春樹は、国際的なユースカルチャーを巧みに活用しています。彼が範としているのは主としてアメリカ人です。タッチもお洒落で、文章はこの上なく読みやすく、ユーモアに富んでします。グローバル消費文化のさまざまなアイテムにも好んで言及します。それゆえ彼の成功は、表面的には、村上本人も登場人物たちもこよなく愛しているポピュラー音楽の世界的成功と似て見えます。
登場人物と同様に、村上春樹はすべて日本人でもなければ、アメリカナイズされているわけでもありません。彼は人間の意識が持つ、境界を越えて自由に行き来するさまざまな側面に波長を合わせているのです。限定する国もなく決まった居住地も持たない、真にグローバルな作家の先駆にしています。特定の土地から離れて浮遊しているあらゆる場所に語りかけるような、グローバル意識を作り上げているもろもろの要素を巧みに使っているのです。
村上春樹の作品は、後期グローバル資本主義がもたらす、<いま・ここ>の感覚が失われる恐ろしさを、そしてそのなかで生きるわれわれの内なる難民としてのありようを、あらゆるレベルで理解しています。そして商品化された生活がもたらす不安な流動性、何ごとも取り替え可能になってしまう恐ろしさを、彼はいかなる現代作家にもましてよく把握しています。
村上春樹は、世界中これだけ多様な地域でかくも広範な読者層を得た理由を問われて、「僕の本は読者に、自由の感覚を−現実世界から自由になった感覚を−もたらすのかも知れません」と答えています。村上春樹の物語は、分散した自己を生きること、古い国家が消えていくなかで新しい世界主義(コスモポリタニズム)を生きることにめざましい心地よさを見出しています。
リゾラッティのミラー・ニューロンと村上春樹を結び付けたこの素晴らしい基調講演に驚きながら、僕はかつてカバット、ブルンストローム、ボバース、ルード、ボイタらの「ファシリテーション・テクニック」が、世界のリハビリテーションを一世風靡したことを思い出す。それらの本もまた各国で翻訳され、世界中のセラピストに読まれた。
想い返せば、八幡浜市民病院での研修中、「風の歌を聴け」を読み終えると、いつもファシリテーション・テクニックの文献を読んでいた。その記憶が、まるで昨日のことであったかのように鮮明に蘇る。
そして今、「ファシリテーション・テクニックの衰退は、運動麻痺の回復に取り組むセラピストにある種の「喪失感」を与えたのではないか」と思う。ファシリテーションの時代の後のセラピスト、つまり1980年後の臨床を生きるセラピストは「失われた世代」だと言えるのではないか。今では、セラピストの多くが運動麻痺の回復を口にしなくなっている。患者の運動麻痺の回復よりも、日常生活動作能力の改善や早期の社会復帰を最優先する論調が圧倒的に多くなっている。世界のハルキ・ムラカミ現象はリハビリテーション治療とも無縁ではないのだ。
いつの日かペルフェッティの認知運動療法が新しい世界主義(コスモポリタリズム)をつくるのだろうか? そのためには「失われた世代」を生きるセラピストの「喪失感」からの回復が必要であると思う。
僕は認知運動療法と出会って以来、村上春樹を読まなくなった。
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