Home > 会長からのメッセージ目次 > メッセージNo.102
←No.101へ | No.103へ→ |
『認知の時間』が始まった6月5日(金)、まだ全国でコロナ対策がつづいている大変な臨床であっても、患者さんたちのために仕事を頑張り、その後さらに帰宅せずにオンラインで勉強しようと集まってくれたセラピストが大勢いたことに、とても感動している。そのセラピストの数は僕の想像を超えていた。
そんなセラピストに対して僕は「ゲシュタルト」について語ったのだが、支離滅裂でとても難しかったと思う。多分、期待に沿えなかったように思う。いつか、もう一度チャンスを与えてもらおうと甘いことを考えながらも、反省の念を込めて、そのポイントを補足しておきたい。
まず、「ゲシュタルト(Gestalt,形態、全体性)」はドイツ心理学派のコフカらの知覚理論であり、「ゲシュタルト知覚」と呼ばれる。それをヴァイツゼッカーやゴールドシュタインが「行為のゲシュタルト」に、さらにメルロ=ポンティが「意識のゲシュタルト」に拡張したと思う。体育系のマイネルや金子の「モルフォロギー」や認知心理学のギブソンの「アフォーダンス」もゲシュタルトがルーツである。
ゲシュタルトは視覚だけでなく聴覚でも存在する。音の集まり(流れ)を一つの「メロディ」と捉える場合が相当する。だとすれば、「行為のメロディ」も一つのゲシュタルトであろう。行為は運動メロディであると同時に知覚のメロディでもある。
その意味で、リハビリテーションにおける「行為の観察」や「運動学習アプローチ」を考える上でゲシュタルトは重要である。なぜなら、患者の異常動作(代償動作)や異常歩行(代償歩行)は「ゲシュタルトの崩壊」と捉えることができるからである。
図1 ゲシュタルト知覚
まず、一枚の図を見せた。図1が「おばあさんの顔」と「若い女の横顔」のどちらかに見えるのは、視覚が「地と図」あるいは「全体と部分」を差異化して「顔」または「横顔」という形を全体化して見るからである(顔のゲシュタルト)。ここでは受動的な「見える」から能動的な「見る」への変換が生じている。だが、顔または横顔は「全体」なのだが、よく見ると「鼻」、「目」、「顎」といった「部分」も見える。
次に、認知運動療法の「訓練場面」を見てみる。図2では片麻痺患者が歩行している。歩行という行為は一つのゲシュタルトである。これを「歩行のゲシュタルト」と呼ぼう。歩行のゲシュタルトは「運動メロディ(運動の連続)」で、一歩行周期は「踵接地期−足底接地期−立脚中期−踏み切り期−遊脚期」よりなる。だが、この訓練場面の写真をよく見ると、図2は足底接地期という「部分」である。全体の顔に部分の鼻があるように、全体の歩行に部分の足底接地期があるということだ。
図2 認知運動療法の訓練場面
リハビリテーションにおける歩行練習は、歩行のゲシュタルトの全体を練習する方法がある(平行棒内歩行訓練、杖歩行訓練、屋外歩行訓練など)。
また、歩行のゲシュタルトの部分、つまり足底接地期に限定して練習する方法がある(ボバース系のCarrの運動再学習アプローチやPerfettiの歩行再教育などが相当)。
これに対して、図2の認知運動療法では足底接地期から立脚中期へと移行する時の「足−膝−股関節」の空間的な位置関係の知覚を練習している。この後、足部の踵に対して膝関節の位置がどこにあるかが「認知問題(空間問題)」として問われることになる。この足部と膝関節の空間的な位置関係が知覚できるようになれば、「足底の基底面(接触面)の上に膝関節を運んで立脚中期へと向かう体重支持が可能となるだろう」とセラピストは仮説づけている。
重要なのは、図2の認知運動療法が歩行のゲシュタルトの「全体」の練習でもなく、「部分」の練習でもない点である。一見、部分の練習に見えるかもしれないが、実は部分における「細部(部分の単位)」の運動の細分化を知覚する練習となっている。単位(ユニット)は身体と環境の相互作用による知覚情報であり、認知運動療法では「行為−機能−単位」のシステムと説明することが多い。
つまり、認知運動療法の訓練は「システム(要素間の関係性)」を治療しようとしている。
いずれにせよ、セラピストは歩行のゲシュタルトを見るが、その全体−部分−細部(単位)を見なければならない。全体のゲシュタルト、部分のゲシュタルト、細部のゲシュタルトがあるからだ。
また、特に片麻痺の歩行再教育は細部(単位)の治療、つまり足と床面の関係性あるいは足と膝の関係性を優先的に治療する必要がある。なぜなら、足底接地期から立脚中期への移動は足部が自己中心座標(空間移動の支点)となるからである。歩行において足部は「踵ロッカー、足関節ロッカー、中足骨(MPJ)ロッカー、母指ロッカーを支点として連続的に移動する。その時、足底と床面の接触面も変化していく。これは歩行における「足のメロディ」である。
セラピストが一つの訓練場面を見ること、そのゲシュタルトを見る時、患者とセラピストの二人の行為を同時に見る必要がある。患者がどのような行為をしようとしているか、セラピストがどのような行為をしようとしているか。患者は行為をしようとしている、セラピストは訓練という行為をしている。その二人の相互作用が訓練であり、その意味を理解しなければ、「訓練場面のゲシュタルト」を見たことにはならない。
講義後の討議では、園田氏、濱田氏、平谷氏らより、この認知運動療法の訓練がボトムアップ的(単位➡部分➡全体という創発過程)な説明だという指摘が出た。もっとトップダウン的な(この表現が適切かどうかは別として)、行為イメージの想起(過去の行為の記憶)と訓練としての行為の比較(行為間比較)を導入すべきとの意見が出た。
それは重要で正しい指摘なのだが、僕が「認知の時間」で強調したのは、日々の臨床でセラピストが患者の行為を観察する時に、「行為−部分(機能)−単位(身体と環境の相互作用)」のゲシュタルトとその崩壊をきちんと見なければならない点であった。そのためにセラピストは「行為の共時的分析」ではなく、「行為の通時的分析」を習慣化しなければならないということであった。
そして、謎として提示したのは、行為のゲシュタルト、あるいは歩行のゲシュタルトは視覚のゲシュタルトとしては見えるが、歩行のゲシュタルトは体性感覚のゲシュタルトだとすると、それは見えなくなる。だとすれば、体性感覚のゲシュタルトとは頭頂葉の「身体図式(body
schema)」のことだろうか? という問いかけであった。
目を閉じて、手で小さな物体を掴めば、体性感覚(手の触覚と運動覚)のゲシュタルトが出現する。物体の形がわかる。だが、歩行の場合はどうなのだろうか? 歩行の形や全体はわかるように思うのだが、手に比べると何か違うように思うのだ。その歩行イメージに環境世界での体験が含まれていないからだろうか。これはリアリティ(三人称)とアクチャリティ(一人称)の違いなのかもしれない。
図 小型バネルの「Tの文字」の知覚
ゲシュタルトと認知運動療法、それは古くて新しい問題だと思う。上肢のタブレットを使って小型パネルの「Tの文字」を知覚するのは上肢の深部感覚のゲシュタルトだ。
そして、『行動の構造(メルロ=ポンティ)』の構造とはゲシュタルトのシステムのことだ。たとえば、歩行もゲシュタルトだ。動作や行為も、行為イメージ、行為の記憶もゲシュタルトだ。言語もゲシュタルトだ。文章もゲシュタルトだ。意識がゲシュタルトなのだ。
そして、全体も部分も細部(単位)もゲシュタルトだ。固定した静的なゲシュタルトと動く動的なゲシュタルトがある。脳の中はゲシュタルトだらけだ。「私」もゲシュタルトだ。世界はゲシュタルトだ。
だが、それはゲシュタルトという要素の集合体ではない。
ゲシュタルト(要素)間の関係性という「システム」が創発する「世界の意味」なのである。
文献
←No.101へ | No.103へ→ |