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メッセージNo.103 ゲシュタルトの余白に…

 「身体図式(body schema)」はゲシュタルトなのだろうか。その謎を考えるためにメルロ=ポンティの『知覚の現象学』をパラパラと再読してみた。

 『知覚の現象学』は患者の「生きた身体(現象的身体)」を治療するリハビリテーション・セラピストが何度も読み返し、その意味を理解すべき本だと思う。ペルフェッティ先生なら、「君もメルロ=ポンティを読んでいるので”身体図式”とか”肉”という言葉の意味は既にわかっていると思うが…」と言うだろうが、実はメルロ=ポンティは哲学と科学と文学表現が混在していて読むことは簡単ではない。言葉の意味が深いということだ。

メルロ=ポンティの写真
Merleau-Ponty(1908-1961)

 また、メルロ=ポンティの単行本の翻訳はあるが文庫本がまったくない。全国の哲学系の本の編集者たちに、『行動の構造』と『知覚の現象学』の文庫本の出版をぜひお願いしたい。それによって価格が安くなり多くのセラピストが読むことができる。ベルクソンの『物質と記憶』はもう何冊も異なる翻訳者による文庫本が出版されていて誰でも買って読める。サルトルの『存在と無』も文庫化されている。それに対してメルロ=ポンティはこの50年間に一冊の文庫本も出版されていない。それは編集者の怠慢ではないかとも思う。あるいは、その裏に何か意図があるのではないかと疑ってしまう。『行動の構造』と『知覚の現象学』が文庫本になれば身体障害に苦悩する患者たちのリハビリテーションに貢献すると真剣に考える編集者が日本にいないことが悲しい。

 さて、本題である。メルロ=ポンティは『知覚の現象学』の「自己の身体の空間性、および運動性」の章で、「身体図式」について次のように語っている。


 私の手の空間は、空間的諸価値の寄木細工ではない。同様に、私の身体全体も、私にとっては、空間中に並置された諸部分の寄せ集めではない。私は私の身体を、分割のきかぬ一つの所有の中で保持し、私が私の手足の一つ一つの位置を知るのも、それらを全部包み込んでいる一つの「身体図式(schema corporel)」によってである。
 もっとも、この身体図式という概念は、科学の転換期にあらわれるすべての概念と等しく曖昧なものである。
 「身体図式」という言葉によってはじめに理解されていたところは、その時々の身体内受容性および自己受容性に一つの注釈なり意味を与えることのできるような、我々の身体的経験の「要約」のことであった。
 それが私に提供するはずのものは、私の身体の一部分の行う各運動に応じて、私の身体の諸部分におこる位置の変化、各局部的刺激が私の身体のなかで占める位置、ある複合的動作の行われるたびごとに遂行される運動の便覧、そして最後に、その時々の運動感覚的ならびに関節的諸印象の視覚的言語への普段の翻訳であった。
 はじめのうちは、身体図式を口にすることによって導入されたものは、ただ多数の映像連合を指示するための一つの便利な名称だと思われていた。この言葉によって表現したかったことは、ただ、これらの連合が確固として樹立されていて、絶えず活動できる状態にあるということに過ぎなかった。
 身体図式とは、幼児期の過程で、触覚的、運動感覚的、ならびに関節的諸内容が相互のあいだで連合し合い、あるいは視覚的な諸印象とも連合して、それらをますます容易に喚起するようになるにつれて、少しづつ組み立てられて行ったものだ、と想定されていた。
 そして、その場合、身体図式の生理的表象は、古典的意味における諸映像の一中心以外のものではあり得なかったのである。

 ところが、身体図式についての心理学者たちの用法を見ると、身体図式がこうした連合説的定義をはみ出しているのがよくわかる。
 幻影肢の現象を解明しようとして、これを患者の身体図式と結びつけようとする場合、大脳痕跡や再生感覚による古典的説明に何ものかを付加するためには、身体図式が単に習慣的な運動感覚の残澤(ざんさい,名残)たることをやめて、それの構成法則となるものでなければならない。
 もしも人が身体図式というこの新しい言葉を導入する必要性を感じたとすれば、それは身体の空間的・時間的統一性、相互感覚的統一性、あるいは感覚運動統一性が言わば正当な権利をもっていること、この統一性は単に我々の経験の過程で実際に偶然連合した諸内容だけに限定されはしないこと、この統一性はある意味でそれらに先立ち、まさにそれらの連合を可能にするものであること、こうしたことを表現するためであった。
 してみれば、こうして我々は、身体図式についての第2の定義づけの方に向かってゆくわけである。
 すなわち、それはもはや経験の過程で確立された諸連合の単なる結果ではなくて、相互感覚的世界における私の姿勢についての包括的な意識、ゲシュタルト心理学の意味における一つの「形態(全体性)」だ、ということになろう。

 ところが、この第2の定義づけの方も、これまた心理学者たちの分析によってすでに乗り越えられてしまっている。「私の身体は一つの形態である」、「つまり、全体が諸部分に先立つような現象である」、と言うだけでは十分ではない。では、どうしてそのような現象が可能となるのか、それが問題なのだ。
 それは形態というものが、物理=科学的身体のもつ寄木細工に比べて、あるいは「運動感覚」のそれに比べて、新しい型の存在だからである。
 病態失認患者の麻痺した手足が患者の身体図式のなかではもはや何の役割も果たしていないとすれば、それは身体図式というものが存在している身体諸部分の単なる複写でもなければ、その包括的な意識ですらもないからである。
 身体図式がそれら身体諸部分を有機体の行動の計画に対するそれらの価値の比率に従って、積極的に自己のなかに統合するからである。
 身体図式はダイナミックなものだと心理学者はしばしば語るけれども、この言葉をその正確な意味で捉えてみると、それは私の身体が現勢的または可能的なある任務に向かってとる姿勢として私にあらわれる、という意味である。
 そして、実際、私の身体のもつ空間性は、外面的諸対象のもつ空間性や「空間的諸感覚」のもつ空間性と同じような、一つの「位置の空間性(spatialite de position)」ではなくて、一つの「状況の空間性(spatialite de situation)」なのである。

 たとえば、私が机のまえに立ったままで居て、両手でもってそれにのしかかっているという場合、私の手だけが強調されていて、私の身体全体はまるで彗星の尾のように手の背後へと流れて行っている。というのも、私の肩なり腰なりの位置が私にわからないからではない。そうではなくて、それらのものの位置が私の両手の位置のなかに包まれてしか存在していないからであり、テーブルのうえに突いた両手のその支えのなかに、私の姿勢の全体がいわば読みとられるからである。

 また、私が立って居て、私のパイプを手で握りしめているという場合、私の手の位置というものは、私の手が私の前腕とのあいだでとる角度、私の前腕が私の上腕とのあいだでとる角度、最後に私の上腕が私の胴体とのあいだでとる角度、最後に私の胴体が大地とのあいだでとる角度、といったものから次々に推論されて行って決まるものではない。私は自分のパイプがどこにあるのかを、一つの絶対知によって知ってしまっているのであり、まさにそれによって、私の手がどこにあるか、私の身体がどこにあるかも知っているのである。

 私の身体に適用されていた「ここ(此処)」という言葉は、他のさまざまな位置との関係で、あるいは外面的座標との関係で決定された一つの位置なぞではなくて、第一次的な座標の布置、ある対象への活動(行為)的な身体の投錨(とうびょう)、自己の任務に直面した身体の状況なのである。

 結局のところ、私の身体が一つの「形態(ゲシュタルト)」であり、それを前にして未分化の地の上に特権的な図形が浮かんで来ることができるのも、私の身体がその任務によって分極化されているからであり、それがその任務の方に向かって実存しているからであり、それが自分の目的に到達するために自分自身を収縮させているからに他ならないのである。

 つまり、「身体図式」とは、私の身体が「世界内存在」であることを表現するための一つの仕方だというわけである。

(知覚の現象学(竹内芳郎・他訳、みすず書房,1967,一部の文章省略)


 このメルロ=ポンティの文章では、『私の身体のもつ空間性は、外面的諸対象のもつ空間性や「空間的諸感覚」のもつ空間性と同じような、一つの「位置の空間性(spatialite de position)」ではなくて、一つの「状況の空間性(spatialite de situation)」なのである』という所が最も重要である。
 つまり、メルロ=ポンティの言う「身体図式」は身体の諸感覚の連合(統合)の意味での身体図式ではなく、一つの「状況の空間性」としての身体図式、言い換えると私の身体空間(世界に働きかける身体のゲシュタルト)、あるいは私の行為空間(連続的に変化する身体のゲシュタルト)なのだと解釈すべきである。単純化すると、この身体図式は私が行為しようとする時の状況の空間性のことだ。つまり、身体と世界の関係性を含む。たとえば、杖を床に着いて歩く時(状況)の身体図式は身体や杖や床を含めた身体図式ということだ(身体図式の延長)。

 その上で、リハビリテーションの臨床において、急性期後に片麻痺患者が車椅子から平行棒内で「立ち上がる」という行為の練習をするという「状況」を考えてみる。
 この「状況」は、一見、「立ち上がり訓練」という状況にあるように見える(現実の世界における行為の状況ではある)。だが、実際には身体図式は変容しており、「立ち上がりという行為のゲシュタルト」は崩壊し、下肢は痙性による伸展パターンを来し、足は内反尖足となってしまう。
 そこで、セラピストは、立ち上がり動作を介助して立ち上がりをさせる。あるいは、足底の圧や荷重に注意するように言語教示して、または内反尖足しないよう徒手による介助で足を床に全面接地するようにして立ち上がり訓練を行う。また、認知運動療法なら、足底の触覚や圧覚の接触問題や足−膝−股関節の空間問題を行う(訓練としての行為)。
 だが、この時、「立ち上がる」という身体図式(あるいは行為のゲシュタルト)は、患者の脳の中では外面的な「位置の空間性」に基づいて脳の中で想起されていると考えられる(三人称の客観的なリアリティ)。それでも、何らかの「状況の空間性」に基づく身体図式を脳の中で想起しているのかも知れない。しかし、それは下肢の痙性による伸展パターンや足の内反尖足の出現によって否定される。正しい「状況の空間性」に基づく身体図式は活性化されていない。
 「状況の空間性」に基づく身体図式とは、「私が行為しようとする状況で想起される身体図式」のことである(一人称の主観的なアクチャリティ)。患者の脳の中に、この「状況の空間性」としての身体図式が脳の中で活性化されない限り、「私が立ち上がりという行為をしている状況」は生まれない。
 したがって、「現実の世界における行為(外面的な位置の空間性)」と「訓練としての行為(たとえば、足の位置の空間性や足底圧の接触空間)」の関連づけや比較だけでは、正しい「状況の空間性」に基づく身体図式は活性化されていない。「現実の世界における行為」と「訓練としての行為」の関連づけや比較は正常者なら可能だろう。しかし、片麻痺患者は想起する身体図式そのものが変容しているために困難なのである。
 そこで、認知神経リハビリテーションの「行為間比較」では、「行為の記憶(過去の行為、損傷前の行為)」としての「私が立ち上がりという行為している状況」を想起させ、この「行為の記憶(一人称の主観的なアクチャリティ)」と「現実の世界における行為(三人称の客観的なリアリティ)」と「訓練としての行為」の3つの行為を関連づけ、比較させる。なお、この辺りは中間世界の論議や行為間比較の訓練の実際も含めて別の機会に論議する。
 いずれにせよ、そうした行為間の関連づけや比較によって、片麻痺患者の「私の身体図式」が脳の中で動き始め、「私が立ち上がりという行為をすることができる」と思い始めると仮説づけることができる。身体図式が行為の脳内シミュレーション(simulation)に参加し始める。そして、それをフッサールは「キネステーゼ(kinasthese,私は○○することができるという運動感覚)」と呼んだのだと思う。また、このキネステーゼはいわゆる神経生理学的な運動覚としての「運動感覚(kinesthesia)」とは違う。この違いはメルロ=ポンティの「身体図式」と通説的な身体感覚の連合として「身体図式」の差異に似ている。

 身体図式、あるいは状況の空間性、それはダイナミックに変化する行為の「ゲシュタルト知覚」である。世界に働きかける時の身体のゲシュタルト、あるいは行為のゲシュタルトは状況に埋め込まれている。人間は行為という「状況」で行為するのだ。また、あらゆるゲシュタルト知覚は記憶なしで組織化できない。片麻痺患者には行為の記憶が残っている。
 メルロ=ポンティは、通説的な身体感覚(触覚、運動覚、視覚)の連合(統合)と解釈する身体図式の捉え方を否定し、「身体図式とは、私の身体が世界内存在であることを表現するための一つの仕方である」としている。
 しかし、これを「私の身体は世界の内で行為する」と短絡的に解釈してはならない。これは身体図式が「私の身体は世界の内で行為する」という「私のパースペクティブ(世界への視点、まなざし)」を作り出しているという意味である。つまり、私の身体は世界の内で行為するための道具ではなく、「世界を生み出す”肉”」であり、その”肉”として私が生きることを表現する一つの仕方としての、一つの「絶対知(暗黙知)」が身体図式なのである。
 要するに、身体図式とは「物体としての”肉”が精神としての”肉”になること」に他ならない。だとすれば、身体図式は「肉のゲシュタルト」であり、世界に意味を付与するという機能を果たしている。人間はこのような”肉”をもつから、このような世界が生まれるのだ。”肉”がこうした世界を生み出すから、人間に特有な認知や行為ができるのだ。だとすれば、次のように考えるべきではないだろうか。

 身体図式(肉のゲシュタルト)は、「身体と精神の”結び目”」である。
 身体図式(肉のゲシュタルト)は、「認知と行為の”結節点”」なのだ。

 つまり、脳のニューロン・レベルでも、身体図式は身体と精神、あるいは認知と行為をつなぐインターフェースとしての役割を有している。まず、体性感覚情報と視覚をつなぎ(体性感覚連合野)、言語を含めた異種感覚情報をつなぎ(頭頂葉連合野)、異種感覚情報や記憶を意図や運動プログラム情報につなぎ(前頭葉の運動関連領域、補足運動野、運動前野)、その結果、第一次運動野が状況に応じた行為を外部世界に産出する。その認知と行為の神経ネットワークは直接的な感覚運動変換ではなく、人間の場合は身体図式を介した階層的かつ分散的な「感覚運動変換システム(systems of sensorymotor transformation)」であると考えられる。

 それを図式化すると「身体−身体図式−精神」の三角形、あるいは「認知−身体図式−行為」の三角形になる。また、これは両方向性の相互作用である。だから、身体病変でも精神病変でも身体図式の変容が起こる。認知病変でも行為病変でも身体図式の変容が起こる。あるいは、身体図式の病変で身体変容や精神変容が起こる。身体図式の病変で認知変容や行為変容が起こる。常に、人間の生きる経験には「身体図式」が媒介しているという意味である。身体図式の媒介がなければ世界に意味は与えられるが、私が世界に意味を与えることができない(グラチアーノの注意スキーマ理論を参照のこと)。身体図式は外部世界の「客観的身体(corps objectif)」と内部世界の「現象的身体(corps phenomenal)」をつなぐ「知のインターフェース(interface)」の「ハブ(hub)」なのだ。だとすれば、「客観的身体−身体図式−現象的身体」の三角形である(個人的見解)。

 僕は、これを「メルロ=ポンティの三角形」と呼びたい。
 ちなみに、ヴイゴツキーの三角形は「主体−道具−客体」の三角形である。

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