認知神経リハビリテーション学会

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メッセージNo.132  身体は直接知覚できない!

■われわれはまだ思考していない、思考すべきものを

 哲学者の合田正人先生の「心身問題(身体哲学)」についての講義で、ハイデガーの「われわれはまだ思考していない、思考すべきものを」という言葉を知った。この言葉を思い出し、この言葉に触発されて、「脳のなかの身体」のリハビリテーションについて、まだ思考していない、思考すべきものを論じてみたい。

■「わたし」という謎

 メッツィンガー(Metzinger)は、『エゴ・トンネル:心の科学と「わたし」という謎(岩波書店,2015)』という本で、「自己は内的イメージ(現象的エゴ、現象的自己)」である」と言っている。
 彼は「自己の神話」を否定する。それは「人々が信じているような、自己というようなものは存在しない」という意味である。そして、「誰も自己であったり、自己をもったりしていたことはない」と断定した上で、「自己は内的イメージ(現象的エゴ)である」と主張する。そして、「現象的エゴ(内的イメージ)は意識的自己モデルの内容」である」、「私たちは外界の現実や自分自身と直接接触しているわけではなく、内的なパースペクティブをもっている」、「脳は世界のシミュレーションを生み出し、その内的なイメージ、つまり意識的自己モデルを世界モデルの中に位置づけることで、中心が形成される」、「その中心が、私たち自分自身として経験するもの、つまり自己である」と説明する。
 また、メッツィンガーは「人間の内部イメージが現象的エゴ、意識的な経験に現れる際の”私”や”自己”である」、「それには意識的な所有性の感覚がともなっている」、「それは、自分の手足、自分の触覚、自分の感覚、自分の身体、自分の思考として経験される」とも説明している。
 なぜ、自己は内的イメージ(現象的エゴ)なのか。なぜなら、自己は意識作用ではなく、意識内容によってつくられるからである。現象は物体ではなく出来事(エピソード)である。あるいは「関係性(差異)」であり実存しない。通常、望遠鏡を覗いて外部世界を見ている主体(意識)が自己だとされる。視線(まなざし、perspective)あるいは意識の志向性の源に主体が存在するとされる。それによって主体の意識作用(ノエシス)が意識内容(ノエマ)をつくると考える。この場合、自己は意識作用である。しかしながら、意識内容によって自己がつくられていると考えれば、意識作用の主体としての自己は存在しなくてもよい。脳科学が脳のどこを探しても「自己など、どこにも存在しない(Metzinger)」のはそのためである。
 同様に、デネットも「心は幻想」だと主張している。また、「心は身体の重心のようなものだ」と比喩している。それは「身体のどこを解剖学的に探しても重心は発見できないが、身体が動く時にはいつも重心が変化している」という意味だ。
 それでもなお、誰もが生きている実感として、「私の身体はいつも“ここ”に存在する」と言いたくなるかも知れない。しかし、「ラバーハンド・イリュージョン(ゴムの手錯覚)」のように手の体性感覚空間(触覚、運動覚)の“ここ”もイメージであり変容する。道具を使用すれば「身体の延長」と「感覚の投射(プロジェクション)」によって道具が自己の一部だと感じる。最近では全身の「幽体離脱」も心的現実だとされているし、AI(人工知能)やロボットの時代に入ってヴァーチャル・リアリティ(仮想空間)の世界の中に自己が投影されはじめている。
 自己は「経験の一人称主体」であることを意味する。あるいは、メルロ=ポンティが「野生の身体」と呼んだ「身体的自己(対自ではなく反省前の即自)」に由来する。それはカントの言葉を使って「誤同定による誤りへの免疫(immunity to error through misidentification)」という特徴を有している。それは「身体に性質や状態を帰属する際に、帰属先に関する取り違えが生じないという事態」である。動物も人間も身体的自己を誤同定しない。これに対して「現象的自己」の考え方では、「身体的自己」のレベルも含めて自己は意識内容によって変化する。そこには自己意識の謎が潜んでいる。
 「人は自己の夢(イメージ)の中を生きる」のだろうか。自己が物理的世界を生きることは自明だが、同時に心的世界で意識的な生を営んでいることも自明だ。

■自己意識はイメージである

 自己意識(主体)は「想像した像(構成した内的イメージ)なのだろうか。その「脳表象(representation)」は「あるものの代わりにある何か」であり、物理的な外部世界には存在しない。イメージは「類似的代理物(アナロゴン,サルトル)」なのだ。その意味では身体図式、身体イメージ、知覚イメージ、運動イメージ、行為イメージなども脳表象でありアナゴン(類似、代理、再現、コピー)である。したがって、主体的(内的)に認識されている身体性に基づく自己意識も「心的イメージ(自己の代理)」、「想像された像」だということになる。
 だとすれば、自己意識は「心の幻想」である。それは実感できるが実存しない。また、自己意識はベイトソン流に言うと「差異の関係性」によってしか生まれない。物理的な差異は物理世界にあるが「差異(関係性)」は精神的な世界に存在する。差異(関係性)は情報を構築する精神世界の「認知的な差異」だからだ。したがって、自己意識は「物理的な差異を認知的な差異に変換する(Perfetti)」ことで産出される「身体化された精神」だと言える。
 しかし、自己意識は可変的で心的に移り変わってゆくように自覚される。病的状態では自我を喪失したり、自己を誤認識したり、自己が変容したり、時には忘れたり、狂ったりする。
 そして、リハビリテーションの臨床には、脳損傷によって主観的(内的)に認識されている身体とのつながりが危機に瀕している患者たちがいる。それは自己意識(主体性)の変容を伴う。
 だからこそ、片麻痺の回復においても、「身体的自己」、「身体意識」、「自己感」、「身体所有感」、「運動主体感」、「運動制御感」、「身体図式」、「身体イメージ」、「運動イメージ」、「行為のシミュレーション」、「キネステ―ゼ」、「アフォーダンス」といった「心的イメージ」に働きかける「脳のリハビリテーション」が重要になる。身体と精神が分離すると自己(主体)は困惑する。それは「経験の言語(一人称言語記述)」によって知ることができる。認知神経リハビリテーションによって、自己(主体)が「身体と精神の一つのユニット」であるという「私の自明性」を取り戻す必要がある。

■身体は直接知覚できない

 造形作家で批評家の岡崎乾二郎先生は、2023年の第23回日本認知神経リハビリテーション学会の特別講演で、身体所有感と運動主体感の回復メカニズムを、自著『ルネサンス 経験の条件(文春学藝ライブラリ―,文藝春秋)』におけるブルネレスキによる「ブランカッチ礼拝堂壁画」の鏡像反転の重ね合わせモデルを使って説明している。それによれば、「身体に対する主体の認識(意識)は、直接的認識ではなく間接的認識である」。したがって、「意識は身体を直接知覚できない」と言っている。そして、その間接的認識は二面の鏡面を介して「自己意識」を反映すると考えた。なぜなら、物体(客体)としての身体は「鏡面Aに映った《もの》の鏡像(image)と鏡面Bに映った《機能》の鏡像(image)の合成像(image)である」からだ。つまり、身体についての主体の認識(意識)は身体の物体性(鏡面A)と身体の機能性(鏡面B)の合成像(イメージ)なのだ。おそらく、物体性とは属性である形や大きさや重さや色のイメージ、機能とは運動機能や感覚機能のことで、運動イメージや行為イメージや道具使用も含まれる。
 だから、リハビリテーションは身体の物体イメージと身体の機能イメージに介入して、自己意識としての「身体所有感(sense of ownership)」や「運動主体感(sense of agency)」を改変することができる。身体スキーマやキネステーゼの神経可塑性に働きかけることができる。岡崎氏は「学習することは、今までもっていた自己意識を作り替えることが条件となる」と述べている。
 この岡崎先生の思考は、自己(身体と精神)をめぐる思想に「パラダイム転回」をもたらす可能性がある。なぜなら、哲学者も脳科学者もセラピストも、誰もが、「身体は直接知覚できる」ことを前提に論議しているからだ。
 また、この思考をリハビリテーションに導入すると、従来の「運動学習」の理論を超える、新たな「認知運動学習」の理論を生み出す可能性がある。重要なのは、ペルフェッティの「病的状態からの学習」を説明する「認知神経理論(認知過程の活性化による学習)」や「行為間比較」による「比較学習理論」との整合性を考察することであろう。

■「脳のなかの身体」のリハビリテーション

 長い間、「脳のなかの身体」のリハビリテーションについて考えてきた。今は、われわれはまだ思考していない、思考すべきものを➡「わたし」という現象➡自己意識はイメージである➡身体は直接知覚できない、という流れで思考している。これが合田正人先生の言葉に触発され、岡崎乾二郎先生の思考の影響を受けていることは自覚している。
 ペルフェッティ先生に「身体と環境の相互作用は直接知覚なのか、それとも間接知覚なのか」を質問してみたい。もうそれは叶わないが、何と答えてくれるだろうか。今度、河本英夫先生に「バレラのオートポイエーシスは直接知覚なのか、それとも間接知覚なのか」を質問してみたい。吉田正俊先生に「能動的推論(自由エネルギー原理)による行為は直接知覚なのか、それとも間接知覚なのか」を質問してみたい。田中彰吾先生に「身体哲学は直接知覚なのか、それとも間接知覚なのか」と質問してみたい。何と答えてくれるのだろうか。
 また、フッサールは「事象そのものへ」という言葉で、直接経験において「事象そのもの」である「現実」が与えられるとしている。この直接経験は「直接知覚」と同じことを指しているのだろうか。これは現象学の山口一郎先生に質問したら答えてくれるだろう。子どもの知覚発達については心理学の佐藤公治先生に質問したら答えてくれるだろう。さらに、ギブソンは環境から直接知覚(アフォーダンス)すると言っている。自己の身体も直接知覚するのだろうか。先日、「精神のアフォーダンス」という論文を読んだ。だが、一般的な神経生理学では、視覚、聴覚、体性感覚(触覚や運動覚)、あるいは筋の固有受容感覚(プロプリオセプション)は、すべて直接知覚が前提とされているように思う。この直接知覚には直接感覚も含まれる。これらはすべて、人間が世界を、身体を、直接知覚するのか、それとも間接知覚するのかという問いである。あるいは、手や足が物体を直接知覚するか、間接知覚するかという謎である。

手
LEONARDO DA VINCI: Etudes de mains(手の研究)

 身体が物体に触れる時、自己はその物体を直接知覚する。手で物体に触れれば物体を直接感覚する。燃える火に手が触れると反射的に手を引っ込めるのは熱さを直接感じるからだ。あるいは、自己の右手が左手に触れる時の触覚も直接感じるからだ。誰もが常識的にそんな風に考えている。しかし、それは「自己の錯覚」である可能性がある。なぜなら、その直接知覚は状況依存的で絶対的なものではないからだ。同じ視覚も聴覚も体性感覚も状況次第で異なるように感じる。それを自己が直接知覚と信じていても、それは異なる多様な感覚、知覚、認知の中から選択されたイメージだ。だとすれば、自己は身体を直接知覚しているわけではない。それは表象(あるものの代わりにある何か)であり、イメージとして間接知覚されたものなのだ。

 「脳のなかの身体」のリハビリテーション。
 その前提条件は「身体は直接知覚できない」ことだと考え始めている。

 果たして、自己(私)は「われわれはまだ思考していない、思考すべきものを」について論じているのだろうか。この自信のなさは、脳表象(あるものの代わりにある何か)の解釈に起因しているように思う。脳表象は間接なのか直接なのか。その問題と脳表象(知覚)の受動性と能動性を一緒にしてはならない。同様に、運動が先か知覚が先か、あるいは知覚が先か知覚イメージが先かという問題と、直接知覚か間接知覚かという問題を一緒に思考してはならない。それが思考の困惑を引き起こしている原因なのかもしれない。一体、なぜこんなことを思考するのか。それもよくわからないが、大切な思考の局面だという直感がある。

手

 特に、認知神経リハビリテーションの空間問題や接触問題において、手や足で物体の知覚探索を求めるが、それは直接知覚なのか、あるいは間接知覚なのか。直接知覚と間接知覚では、意識の次元(認知の階層性)が異なるように思われる。その意味では、前回の会長メッセージで述べた「脳損傷と訓練の階層レベルは一致しているか?」とも関係している。

 この拙い文章は、昨夜、ベッドの中でルドゥーの新作『存在の四次元−意識の生物学理論(みすず書房)』を読みながら、どこからともなく直感が脳裏に浮かび、昼間に過去に書いたものの一部を使って文章化したメモのような内容に過ぎないが、いつかどこかで誰かと真剣に論議したいと思う。

著書「存在の四次元−意識の生物学理論(みすず書房)」

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