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メッセージNo.141 透明な自分 −比喩としての自己

 アナンサスワーミーは、『私はすでに死んでいる−ゆがんだ<自己>を生み出す脳(藤井留美訳,紀伊國屋書店,2018)』で、ある統合失調患者の言葉を次のように記している。

書籍『私はすでに死んでいる−ゆがんだ<自己>を生み出す脳』


 自分がひとりの人間であるという感覚が危うくなった。「症状が激しかったころは、自分が崩れて、溶けていくような気がしました。自分のまとまりがなくなったんです」。 たとえば、手を前に出すと、そのままどこまでも伸びていくような気がするのだ。「身体の自分や心の自分、あるいはその二つを合わせた自分が、外に浸みだしていくんです。 椅子に座っていても、自分がほとんど透明だと思いました。もちろん実際に透きとおるわけじゃなくて、あくまでたとえですけど」。


そして、「統合失調症は、自分の土台が揺らいでいる、つまり、自己感覚が乱されている状態ではないか」と考察している。

 統合失調症において、「自己感覚が乱れている」というような言語記述は珍しくない。これまで多くの症例で報告されている。ヤスパースは、それを「自己錯乱」と名づけ、中核症状の一つだとした。自己感覚が乱されると、自分と世界の境界が曖昧になり、自己の存在が不確かなものに感じられる。
 しかしながら、自己は懸命にそうした自己の心的状態を理解しようとする。また、その自己感覚が病的であるということに気づいていて、「自己錯乱」に陥らないように心的に抵抗する。
 その時、自己は「比喩(メタファー)」によって自分を解釈しようとする。アナンサスワーミーの症例の言葉で決定的なのは、「もちろん実際に透きとおるわけじゃなくて、あくまでたとえですけど」と最後に付け加えている点である。この「たとえ」が比喩である。それは本当の現実ではなく、そんな風に自分が感じているだけだと解釈している。何とか本当の現実の世界に留まろうと必死に努力しているように感じられる。その想いがプツンと切れたら、現実の世界ではないどこか別の世界に行ってしまう気がするからだろう。
 もしかすると、この世界の移行という不安や恐怖を「比喩(メタファー)」によって止めようとしているのかもしれない。きっと、病的状態を「透明な自分」と比喩で表現しながら、それはあくまでも「比喩による自己」であって、生きている本当の自己でないと解釈しようとしているのだ。
 ただし、「透明な自分のようだ」という感じは否定できない。それは自分が感じている事実を自覚しているからである。したがって、「透明な自己」は認知で、それを「比喩(メタファー)で解釈しようとするのはメタ認知であるとも言える。
 私は「透明な自分」であると感じるが、それを比喩で語っていると解釈するもう一人の自己がいる。このもう一人の私は「身体感覚の変容を言葉で語る自己」である。
 つまり、「身体感覚の変容を言葉で語る自己」は、自己感覚が比喩であることを知っている。だとすれば、それが比喩であることがわからなくなった時、「自己錯乱」が生じるのではないか。その意味で逆説的に「自己は比喩である」と言える。あるいは、自己が比喩に留まれなければ、あるいは「比喩としての自己」を失えば、私は自己を失ってしまう。
 そして、この「「比喩としての自己」は身体感覚に根ざしている。身体感覚を失えば、比喩することもできない。唯一、その身体感覚を失った状態を「無のようだ」と比喩することができるかもしれないが、無の世界には「私の身体」は存在しない。
 身体感覚の変容を比喩によって理解できる限り、「私の身体」は曖昧なまま存在している。曖昧であることは明確に感覚できないということである。だから、それを比喩に変換して身体感覚の変容を解釈しようとする。
 自分と世界の境界が曖昧になると、身体感覚の存在が不確かなものに感じられる。その不安と恐怖を比喩に変換して「私の身体」の存在を確かなものにしようとする。「身体の自分」と「心の自分」の境界に、この症例は佇んでいる。そして、その境界線上に「比喩としての自己(透明な自分)」がいる。

 メルロ=ポンティによれば、私は「私の身体」である。この「私の身体」は身体感覚に由来する「比喩としての自己」なのではないか。たとえ、それが「透明な自分」であったとしても・・・

 ある片麻痺患者が、麻痺した自己の身体を「死んだ肉のようだ」と言ったことがある。
 この一人称言語記述も「比喩としての自己」であると思う。

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