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メッセージNo.25  「単純な方法、複雑な対話」

 2005年6月25日付、高知新聞夕刊の「話題」というコーナーで、「どう考える」と題した記者のエッセーが目に止まった。

 [どう考える]

 引き込まれる光景、というのに時々出くわす。二ケ月前、たまたま県中東部のグランドを訪れた時もそうだった。ある中学校のサッカーチームの練習風景に目がくぎ付けにされ、ほぼ半日、見入ってしまった。

 強豪とされるチームだった。ただ、魅了された理由は彼らの能力や技術の高さではない。緑の芝生の上で織り成される指導者と選手の「対話」だった。

 三十代だろうか。グランド中によく響く声を持つその指導者は練習中、頻繁に笛を吹いてプレーを止めた。そしてそのたび選手に尋ねた。「おいOO、今、何考えていた」。怒って問い詰める、という感じではない。文字通り、問い掛けて聞く。

 例えば、バックスの選手、あるいは中盤の選手にボールを送る。その時、なぜ君の体は左向きだったのか、なぜ右足だったのか、なぜ今、そこに立っているのか。と一つ一つ問う。そして「僕はこう思った」という選手の考えを聞いた上で、プレー上の助言とその根拠を伝える。笛はひっきりなしに鳴る。次は何を聞くか、どう答えるのか。緊張度の高い、濃密な風景だった。

 少年スポーツの世界で、ただ怒り、わめき散らしている監督や保護者の姿を時々見るが、先のような質の高い風景には本当に魅了される。考える、という作業。僕はこう思う、と意志を示し合う作業。日々のわが仕事を省みると、頭から冷水を浴びせられたような気分になる。

 先日、くだんの中学校を訪ねた。雨上がりの運動場で問い掛けが続いていた。その日の問いにはこんな変化球も。「おいOO、今考えていなかったことあるだろ」。頭に浮かんでいなかったことが何なのかまで、答えを求められる。伸びるはずだ。(山岡正史)

 これを読みながら、昨年一年間、イタリアの「サントルソ認知神経リハビリテーションセンター」で研修していた自分が見ていた光景と同じような気がした。一年間の臨床の中でさまざまな経験をしたために、その経験をどのように解釈して伝えればよいのか迷っていたが、答えは単純なものである。この指導者がセラピストで、選手が患者であった。対話の方法は同じで、内容が違うだけである。

 認知神経学者のエーデルマンは(Edelman)は、脳に損傷を受けた患者は「知覚の欠損の方が、欠損の知覚より受け入れやすい」と述べている。知覚の欠損は「どう考えるか」と問い、「欠損の知覚」は「何を考えていなかったか」と問い掛けることである。

 このように考えると、「サントルソ認知神経リハビリテーションセンター」の臨床も案外単純なものだと思えてくる。フランカ・パンテ先生やカーラ・リゼッロ先生と僕の臨床の違いは、患者との対話の質にあったわけだ。その質に到達するには時間が必要だが、方法論の単純さを理解すれば別に深く悩む必要はない。後は、経験の作動を継続すればよいのである。

 こんな単純なことに気がつくのに、一年と数ヶ月という時間を費やした。これが大切であることは以前から知っていた。しかし、自分の知の中で、患者の治療をするセラピストの知の中で、こうした対話をするということが方法論の中核を占める最も重要なポイントだと考えるに至る選択に一年と数ヶ月を要したということである。

 患者の運動機能回復が思うように進まない時、どのような治療をすればよいのか分からない時、認知運動療法を展開しようとする時、迷った時、いつもこの方法論の原点に帰ればよい。ここには治療がセラピストにとって「教育」であり、患者にとって「学習」であるという考え方に沿って、訓練室での患者の経験をどのように導いてゆくべきかという問いに対する、きわめて単純な解答がある。

 先日、ブラジルと引き分けた全日本のサッカーチームを率いるジーコ監督は、決定力が不足しているとシュート練習ばかり繰り返していたようである。中学校や高校のクラブは、指導者が変わることで急に強くなることがよくある。その秘密は「対話」の内容にあるのだろう。自分の学生時代は、PK合戦の練習にジュースを掛けていた。これも条件反射的な学習だが、報酬だけでは上手にならない。

 7月23日と24日の第6回日本認知運動療法研究会(高知市)には、サントルソ認知神経リハビリテーションセンターのカーラ・リゼッロ先生が来日する。「経験を教える」と題した講義では、患者が「どう考えるか」と「何を考えなかったか」をめぐる、単純な方法論から導かれる深い内容の対話が示されるだろう。だが、単純さを探求することこそ、実は最も困難な挑戦なのである。認知運動療法は想像以上に複雑なものになってゆく。経験の作動を継続するということは、そういうものである。サッカーを教えることも、患者の運動機能回復を図ることも、単純な方法によるきわめて複雑な対話の産物なのである

 一つの物体に複数の意味を与えるという方法の単純さは、複数の意味を与えられた一つの物体の概念という複雑さを形成する。

2005.6.27

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