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−ある天才ピアニストへのオマージュ−
天才ジャズピアニストの本田竹広(59)が死んだ。先日、その新聞記事を読んで30年前の熱い記憶が蘇った。
彼が高知でコンサートを開いたのは、僕が高校2年の時だった。何と表現すればよいのだろう。彼のピアノはアメリカから輸入したいわゆるジャズ(JAZZ)ではなかった。スィング感の奥底に、何とも言えない「歌心」があるのだ。手指の奏でるピアノの音が人間の歌う声のように心に響くのである。彼の天才性は、「ピアノで歌う」という奇跡のような手指のタッチにある。彼は、キース・ジャレット、ビル・エバンス、ダラー・ブランド、菅野邦彦、山本剛らと共に、当時の、僕のヒーローの一人であった。
コンサートが終わって、僕は楽屋を訪ねた。今考えると勇気があったものだと思う。彼は田舎の高校生の僕をくしゃくしゃの笑顔で迎え入れ、バンダナにサインしてくれた。「しょうぞうへ、with my soul.TAKEHIRO HONDA」と。嬉しかった。翌日、学校に行っても、この感動を語り合える友人は一人もいなかった。僕は孤独だった。その孤独な心だからこそ、僕は彼のピアノの響きの奥底に漂う歌心を聞き取れていたのではないかと、今では思う。
「ジャズはもう死んだ」という言葉がある。時代は流れる。当時、すり切れるほど聞いた彼のレコード「THIS IS HONDA」はどこに行ったのだろうか。
新聞は、晩年の彼が脳出血となり片麻痺となっていたことを報じていた。彼は左半身が不随になったが、それをリハビリ場にあったピアノ練習で克服してきた。彼の脳出血からの復活コンサートは2005年7月31日東京紀尾井ホールであったらしい。朝日新聞(2005年8月4日夕刊)には「月光はスィングのかなたに」と題したコラムが掲載されている。
彼は片足をひきながらステージに現れ、ゆっくりと合掌して鍵盤に手を伸ばした。そして、ベートーベンの「月光」に挑んだ。5分後、第1章だけを弾き終えると演奏を中断し、頭を下げた。プロの演奏家としては、あり得ない演奏中止である。彼は謝り、その後曲目をジャズに変えて、繊細で力のこもった演奏を行ったという。こんなに弾けるのに、なぜ月光を途中で止めたのか。コラムには、「プロとして、自分の演奏にどうしても納得できなかったのだろう。才能があるばかりに、彼は厳しい道に入る。音楽家はその道に没頭し、生活を犠牲にしても自分の音を追及する。」と書かれてあった。
それにしても、なぜベートーベンの「月光」なのか?と思う。自由奔放にどんなジャンルの音楽でも我流に弾きこなしてきた彼だが、最後になぜジャズの対極にあるクラシックなのか?自分の才能がクラシック曲をも凌駕できることを最後に確認したかったのだろうか? ジャズというある種「日陰」で生きて来た自分が、クラシックを弾きこなせるにもかかわらず、自らの意思でジャズという音楽と生きたことを肯定するためなのか? しかし、それが第1章で中断であれば、技巧としてジャズはクラシックに敗北することにならないか?
決して、そうではないだろう。彼は、麻痺した手を使って、復活の、リハビリテーションの証として「月光」を選んだ。ピアニストが手指の動きを奪われることは死刑判決に等しい。彼は、その恐怖と戦った。そのリハビリテーションの過程で感じた、彼の自らの人生についての、記憶の触感が、「月光」のメロディにマッチしていたのだ。もし、その時、彼の脳裡に歌謡曲が想起されていたら、彼は歌謡曲を復活コンサートで弾いていただろう。ただ、それだけのことのように思う。彼のピアノは、ジャンルや曲に支配されない自由奔放なものだ。アメリカのヒッピー文化と日本の学生運動の時代の息吹を吸収した、彼の感性が奏でる音は、何を弾いても「本田」なのだから。
友人の内田成男氏から聞いたこんなエピソードがある。吉祥寺か国立の小さなジャズ喫茶でのコンサートに、彼は2時間近く遅れて到着したらしい。帰らなかった観客も素晴らしいが、彼は謝った後、3時間ぶっ通しで「弾きまくった」という。これをジャズ・ファンは、本田が「歌いまくった」と言う。彼のピアノは、信じてもらえないかも知れないが、本当に「歌う」のである。
僕の脳裡に残るのは、彼のリハビリテーション訓練室での姿である。できることなら、彼の治療を担当したかった。高校時代のことなど、色々な話をしながら、彼の手指に認知運動療法を適用したかった。
彼は、ピアニストとして幸福な人生を送ったと思う。
日本が生んだ一人の天才が、ピアノの音だけを残して死んだ。
最後のリサイタルは「My Piano My Life 05 HONDA TAKEHIRO」であった。合掌。
2006.3.24
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