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メッセージNo.55  「認知運動療法のパラダイム転換」
―認知運動療法の”認知”ではなく、行為間比較の”認知”へ―

 今、認知運動療法が大きく変わりつつある。僕の記憶が正しければ、一昨年のサントルソ認知神経リハビリテーションセンターで行われたマスターコースで、ペルフェッティは次のように語った。

 『私は認知運動療法を捨て去ってもいいと思っている』

 そして、提案されたのが「行為間比較」であった。何が起ころうとしているのか。その核心が理解できないまま一昨年のマスターコースが終わった。その後、同時期にサントルソで研修していた園田氏が帰国し、広島での認知神経リハビリテーション学会で「行為間比較」について報告した。また、昨年のサントルソでのマスターコースや先日開催された今年の横浜でのアドバンスコースでも、パンテやリゼロによる「行為間比較」の講義が行われた。
 だが、コースの参加者は「行為間比較」の核心が何かを捉えきれずに戸惑っているように感じた。僕も同じように戸惑っていた。講義の内容は一応わかるのだが、その核心がいつまでたっても理解できないという不思議な感覚である。目の前の一枚の絵は見えているのに、その意味がよく理解できない状況に似ていた。
 しかし、ペルフェッティが「私は認知運動療法を捨て去ってもいいと思っている」と言っている限り、必ず何か重大な変化が起こっていることは間違いない。なぜなら、彼は常に前に進むのであり、自分にもセラピストにも思考の停止や安住を許さない。だから、彼はきっと「認知運動療法を越えようとしている」はずである。
 そんな直感を僕は持っていた。しかし、よくわからないような印象が残る。こうしたよくわからない状況に遭遇して戸惑った時、僕は結論を急がない。結論を先送りし、理解できる時を待つ。理解できないのは相手の問題ではなく、自己の思考の方に問題があることが多いからだ。振り返ると、認知運動療法を理解する上でそんなことは何度もあった。短絡的に理解したと思うことで思考は停止してしまう。そうやって知の方向性を間違うのだ。自己の思考の熟成をひたすら待つことが理解への近道だと思う。
 それにしても、一体、どうやって認知運動療法を越えるのか。ペルフェッティは「行為間比較」によって越えることができると主張する。特に、彼は患者の「行為の記憶」と「現実の行為」との「比較」を重要視している。ここに「行為間比較」の鍵がある。この鍵が何かを思考して、新しい挑戦への扉を開かなくてはならないだろう。

 そして、再び思考し、次のような結論に至った。

 『行為間比較の核心は”認知”である』

 バレラによれば、「認知する」ことは「認知するという行為」である。彼の言う「認知」という言葉は認知心理学者や神経科学者の言う「認知」ではない。それは単なる「知覚」、「注意」、「記憶」、「判断」、「言語」・・・といった「認知」ではなく、「私」の知覚であり、注意であり、記憶であり、判断であり、言語である。その上で、バレラは「私」の「認知」には次の四つの特性があるとしている。

1.認知する人間の経験との関連性 ・・・生きた認知
2.認知する人間の構造との関連性・・・身体化された認知
3.認知する人間の行動との関連性 ・・・具体化された認知
4.認知する人間の環境との関連性 ・・・文脈化された認知

 つまり、1)認知とは一人の人間が生きた経験の中で育まれたものであり(来歴)、それは記憶の痕跡として残っており、その既知と新知が比較されて世界の認知がなされる。2)その認知は自己の身体を介して生じる。何かを見ること、何かを聞くこと、何かに触れることは、すべて自己の身体に根ざして認知される。3)その認知は何らかの具体的な行為として遂行することである。具体的な行為のバリエーションが世界を認知することを可能にしている。それは身体の細分化の産物である。4)その認知は行為の周辺に何があり、どんな状況であったか、どのような出来事であったか、自己の心的状況の変化といった連続的な文脈性を有している。
 たとえば、「走る」という行為を考えてみよう。誰でも小学校や中学校の運動会で走ったことがあるだろう。1)その「経験」は自己に固有なエピソード記憶として保存されているはずである。それは人生の一場面を生きた経験として、自己の来歴の一部として記憶されている。2)その記憶は自己の身体の「構造」に由来している。運動会で先頭を走った者の身体の動きの構造とビリを走った者の身体の動きの構造はかなり違う。身体の構造の変化が走る身体の空間的、時間的、強度を変化させる。もし、足首を捻挫して固定していたら、その記憶は身体の構造の変化として身体化されて記憶しているはずである。3)また、その時の「行動」として、どんな走り方をしたのだろうか、手をどのように振って走ったのか、頚や体幹の姿勢も違うだろうし、股関節や膝関節の動き方も人によって違う。走るという行動は具体化されている。4)さらに、その時の環境はどうだったのだろうか。地面は固く乾燥していたのだろうか、雨が降ってぬかるんでいたのだろうか、顔で風を感じただろうか、夢中で走ったのだろうか、ドキドキしていのだろうか、誰かが応援していたのだろうか・・・・。
 走るということは、生きた経験であり、自己の身体の構造に由来して身体化されており、それは具体的に遂行されたものであり、さまざまな環境や状況下における文脈性を有している。こうしたさまざまな関連性を前提として、走るということの意味が「私の走り」として「認知」されている。

 ここで、これまでの認知運動療法における「認知」を考えてみよう。認知運動療法における認知問題には「空間問題(方向、距離、形)」と「接触問題(表面、固さ、重さ、摩擦)」がある。たとえば、患者を閉眼させ、麻痺した身体をセラピストが動かし、その手足の動いた「方向」を問う。患者は認知過程(知覚、注意、記憶、判断、言語)を活性化させ、それに解答する。
 確かに、患者の認知過程は活性化されている。訓練をさまざま組み合わせることによって「運動の特異的病理(伸張反射、放散反応、原始的運動スキーマ、運動単位の動員異常)」もある程度コントロールさせることができる。

 『だが、この患者に求めていた「認知」は、バレラの言う「生きた、身体化された、具体化された、文脈化された」・・・「認知」ではない』

 ペルフェッティは、この「認知の差異」が、訓練による行為の創発の不十分さを生み出していたのではないかと考えたはずである。行為を創発するための訓練における認知は、もっと患者自身(私)に由来する「生きた、身体化された、具体化された、文脈化された」・・・「認知」でなければならない。
 おそらく、彼はそんな風に考えて、患者に過去の行為の記憶の想起を求めたのではないだろうか。その行為の記憶は感覚的、認知的、情動的に豊かなものであり、それを「現実の行為」と「関連づける(コネクション)」ことが訓練によって可能になれば、患者の行為をさらに回復へと導くことができるのでないか?
 要するに、「行為間比較」は、単に行為の記憶の活性化を促すということに留まらない。記憶の活性化は新しい「認知」のためのツールである。

 『それは患者の認知過程(知覚、注意、記憶、判断、言語)を「生きた、身体化された、具体化された、文脈化された」・・・「認知」へと関連づけるためのものである』

 だとすれば、ペルフェッティの提案の核心は次の点にあるように思う。

 『訓練で患者に求める「認知」の意味そのものを変える』

 これは「認知運動療法のパラダイム転換」を意味するのではないだろうか。つまり、単に訓練場面で患者が方向、距離、形、表面、固さ、重さなどを「認知」することは、「私(患者一人一人)」の「生きた、身体化された、具体化された、文脈化された」・・・「認知」ではない。だから、ペルフェッティは、自らの人生のすべてをかけて信じていた「認知」を「捨て去ってもいい」と言う。

 『それは認知運動療法の”認知”ではなく、行為間比較の”認知”へと向かうことに他ならない』

 したがって、認知運動療法における認知過程の活性化は、患者一人一人の「生きた、身体化された、具体化された、文脈化された」・・・「認知」に関連づけられたものでなければならない。セラピストがその認知を知るためには、患者の行為の記憶を知る必要がある。
 この「認知」は、認知心理学者や神経科学者の言う「認知」のことではない。バレラの言う「神経現象学」的な意味での「認知」であり、「私」の人生経験に由来する「身体化された認知」だと言える。あるいは、その認知は「私秘的な認知」である。
 今後、認知運動療法の認知は捨て去られ、訓練は患者一人一人の「生きた、身体化された、具体化された、文脈化された」・・・「認知」をどのように「現実の行為」と関連づけるかが探求されるだろう。行為の回復に向けた日々の訓練における「問いかけ」が変わって来るだろう。
 もちろん、患者の行為の記憶はさまざまである。そのさまざまな行為の記憶の中から、「現実の行為」の回復につながる記憶を選択し、訓練を「発達の最近接領域」に設定することが求められる。
 ペルフェッティは『私は認知運動療法を捨て去ってもいいと思っている』と言った。僕は、この言葉を『私は認知運動療法の”認知”を捨て去ってもいいと思っている』と理解した。

 新しい冒険の旅が始まるということである。「認知をめぐる長い旅路」は、これからも続く。


追記

 僕は、昨日、横浜でのアドバンスコースが終わった後に、この核心に気づいた。そして、気づいた後にこれまでのコースのスライドを見ると、最初からペルフェッティ、パンテ、リゼロ、園田氏らが、そう説明していることにも気づいた。
 思考が浅く、「行為間比較」が「認知を生きる」研究プロジェクトの延長線上にあることに気づかなかった。「行為間比較」がバレラの「神経現象学」に準拠していることに気づかなかった。あるいは、僕自身の生きる経験の中に認知運動療法のパラダイム転換を想定していなかったために気づかなかったのだろう。
 それは、僕に「認知運動療法を捨て去ってもいい」という勇気がなかったということだ。正確には、認知運動療法を捨て去るのではなく、認知心理学者や神経科学者たちが「認知」と呼んでいる客観主義的な「認知」と訣別することであり、認知運動療法の”認知”の意味を変えてしまうということである。
 この「認知」の意味をよく考えてほしい。二つの「認知」の差異と類似性を比較してみてほしい。それによって、認知運動療法が「患者一人一人と歩みを共にしようとしている」ことが理解できるだろう。
 運動療法のパラダイム転換には遭遇したが、認知運動療法のパラダイム転換に遭遇するとは思わなかった。セラピストはこの”驚き”を共有すべきだろう。

 世界を認知しているのは誰かということである。
 認知とは、世界を知ることではなく、世界を生み出すことである(バレラ)。

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