Home > 会長からのメッセージ目次 > メッセージNo.56
←No.55へ | No.57へ→ |
「その一瞬は何も覚えていない」と、彼は言った。ある日の早朝、彼は一人で愛車に乗り、高速道路を走行して、彼女の住む街に向かっていた。その後、気がつくと、病室のベッドにいた。そして、四肢麻痺となっていた。「早起きしたので、少し運転中に眠かったような記憶はある」と彼は付け加えたが、「交通事故のことは記憶にない」と言う。だから、「その一瞬のことは、何も覚えていない」のだ。
一方、彼には頚髄損傷による四肢麻痺という現実がある。リハビリテーション訓練室で二人で一緒に座位保持の練習をしている。頸髄のC5/6間の完全損傷であり、頸の運動、肩の挙上、肘の屈曲、手首の伸展は可能だが、それ以外の随意運動はできない。介助して座位を取らせても上手く身体を保持できない。体幹や下肢の筋はすべて完全に麻痺している。座位で頸を少しでも動かすと重心が移動して急激に倒れてしまう。両手の手指を屈曲して手掌を床に接触させ、肘を伸展位にロックして、座位を安定させる練習を繰り返している。自力で寝返りもできないし、車椅子に移動することもできない。
頸髄損傷後の四肢麻痺は回復しない。残された筋肉を強化して、いくつかの限られた動作を獲得させる必要がある。徒手筋力検査(MMT)を行い、肩甲帯筋(僧帽筋、菱形筋、前鋸筋など)、大胸筋、広背筋、三角筋、上腕二頭筋、手関節背屈筋などを強化しなければならない。彼を、寝たきりにしてはならない。ほぼ全介助が必要であるにせよ、僅かな手の動きでも制御可能な電動車椅子を使って生活させることが、僕が果たすべき仕事であった。
彼はもう30年以上も前に、理学療法士の卵であった僕が地方都市の病院での臨床実習で担当した患者である。当時、彼は19歳、僕は21歳だった。年齢が近いせいもあって、訓練中に色々と話をした。彼は自分の居眠り運転で交通事故を起こし、四肢麻痺となってしまったという現実を、「決して動かない現実」として理解していたが、元気がなかった。
そして、彼を励ます術を僕は持っていなかった。僕には頸髄損傷のレベルによって獲得可能な動作についての解剖学や運動学の知識と、それを実現するための運動療法についての拙い技術があった。大切なことは教科書や文献に書かれている。それはC5/6間の頸髄損傷の動作到達レベルに持ってゆくことだった。そうしなければ僕の運動療法は効果があるとは言えないのだから・・・。
いや、彼を励ます術を持たなかったというよりも、僕自身にそんな言葉を口にする気が無かったと言った方が正しいように思う。21歳の僕は、彼に「元気を出せよ」などと軽い言葉をかけても意味がないと思っていた。そんな言葉が彼に取って無意味であることを直感的に理解していたのだと思う。それ程、四肢麻痺という現実が彼の人生にとって重い宣告であることを、僕は知識としては知っていた。そして、この不条理な人生に対して、僕は沈黙を選んでいた。いや、それは単なる知識として知っているだけだったのだが、決して「元気を出せよ」とは口にしないことを意識的に選択したということだったのかも知れない。
そして、ここからは僕の空想になるのだが、当時の彼には二つの苦悩があったように思う。もちろん一つは四肢麻痺という現実である。頸髄損傷による四肢麻痺が回復しないという現実は、これからの長い人生をそうした身体として生きて行かなければならないことを物語っていた。もう一つは、彼が自分自身の居眠り運転によって交通事故を起こし、四肢麻痺となってしまったことの解釈である。誰か他者の加害者がいるわけではなく、その原因は自分自身にあったのだが、そのことが彼に二重の苦悩をもたらしているように思えた。
つまり、自分自身を責めるのである。しかも、その一瞬は何も覚えていないにもかかわらず、取り返しのつかないことになってしまっている。その一瞬で人生が大きく変化したのだが、その一瞬のことは自分自身が何も知らない。彼はただ高速道路で車を運転していただけである。ほんのわずかな意識の「空白」が、何の記憶もない「無」の時間が、彼の後悔の念としてある。
さらに、この自分自身を責める気持ちが、母親に対する「申し訳なさ」と強固に結びついている。彼の母親は息子の障害を受け入れ、励まし、協力して一緒に生きようとしていた。だが、彼は、自分がそうした悲しみを母親に与えていること自体に対して、自分自身を責めるのである。自分自身と母親という二重の苦悩が彼を憂鬱にさせていた。だから、元気がなかった。本当のところは知らないが、これが僕が彼を担当して想う彼の苦悩についての空想であった。しかし、実際の彼は、母親が見舞いに来ても、特別な感情の変化は見せなかった。母親の表情も淡々としていた。だから、この空想は僕の妄想だったのかも知れない。
もう随分前の、ある患者の想い出だが、この妄想はセラピストになろうとしていた僕の心に「ある種の感情」を植え付けた。つまり、僕は「四肢麻痺に対して強い怒りの感情をもった」のである。同時に、自分のセラピストとしてのどうしようもない無力さを感じた。そして、リハビリテーションというのは安易な仕事ではないと自覚した。
今、この文章を書きながら思い出したエピソードがある。ある日、彼が僕に「タバコを吸うのか?」と聞いたことがあった。その日、僕はたまたまポケットにタバコを入れていた。訓練が終わって病室に帰る時、車椅子を押しながら廊下のドアから外の庭に出て、臨床指導者や病院の職員に見つからないように、大きな樹の下に隠れて一緒にタバコを吸った。
彼はタバコを手で掴めないので、僕が口に持っていって吸わせた。彼は上手く肺まで吸い込まなかった。口で何度か吸って、苦笑いした。つまらないことだが、多分、二人は遊び心をもっていたのだ。僕らは何も語り合わなかった。ただ、しばらくして、僕は年上なので、「タバコを吸うなら、ジャズでも聴いたらいいわ」と言った。上手く説明できないが、これから彼が生きてゆく上で、音楽を好きになればいいのではないかと、ただ、単にその時そう思っただけだった。そこに深い意味はない。
彼は、臨床実習後に退院し、新たな生活へと旅立って行ったようだ。彼とはほんの数ケ月をリハビリテーション訓練室で共に過ごしたに過ぎない。それ以来会っていない。連絡もとっていない。今どこにいるのかも知らないし、どんな人生を過ごしているのかも知らない。
この遠い日の記憶には、言葉にできない“何か”がある。その何かが、今でも時々、“怒りを忘れるな”と呼びかけてくる。
←No.55へ | No.57へ→ |