認知神経リハビリテーション学会

Home > 会長からのメッセージ目次 > メッセージNo.57

Index menu

HOME

認知神経リハビリテーション

学会について

入会のご案内

会員へのお知らせ

会員専用図書室

学術集会

各種講習会

機関誌

会長からのメッセージ

参考図書・文献リスト

各地の勉強会から

問い合わせ

リンク

会長からのメッセージ

←No.56へ No.58へ→

メッセージNo.57  「ラス・メニーナスの空間世界」

 スペインの画家ディエゴ・ベラスケス(Diego Vel?zquez, 1599 - 1660)の傑作「ラス・メニーナス(Las meninas=侍女たち,1656)」は、脳が空間をどのように表象(representation)しているかを考える素材としては最適であるように思う(第15回日本認知神経リハビリテーション学会のポスター参照のこと)。
 この絵画の中央には可愛いマルガリータ王女が立っており、その視線は真っ直ぐこちらを見つめている。周りには侍女たちがいる。左側にはキャンパスが置かれ、ベラスケス本人が描かれており、その視線もこちらに注がれている。右側の倭人とおぼしき女性もこちらに視線を投げかけている。その背後には女官と執事が立っているが、執事の視線もまたこちらを向いている。さらに、後景の扉の開いた戸口には、もう一人の執事が立っており、彼もまたこちらを眺めている。絵画の中に描かれた者たちの視線と、絵画の中に描かれた者たちを眺めるこちら側の視線は、まるで見つめ合うかのように交わっている。
 だが、絵画の中に描かれた者たちの脳は何を表象しているのだろうか? 投げかけられている視線の先には誰が表象されているのだろうか? 一体、誰と誰が見つめ合っているのだろうか? そんな風に見ると、この絵画の空間世界の秘密が一挙に立ち現われてくる。
 こちら側にいて視線を投げ返しているのが鑑賞者である僕らでないことは明らかだ。絵画の中に描かれた者たちの脳が表象しているのはフェリペ国王夫妻の姿であるという説が有力だ。その証拠に、絵画の中央の背後には小さな「鏡」があり、可愛いマルガリータ王女を見つめるフェリペ国王夫妻が写し出されている。どうやら、この絵画はフェリペ国王夫妻が宮廷画家であるベラスケスのアトリエを訪れた瞬間を描いているようだ。
 つまり、絵画の鑑賞者である僕らとフェリーペ国王夫妻の視線は重複している。しかしながら、この絵画には、このマルガリータ王女を見つめている視線が、実際に彼女を描いているベラスケス自身の視線でもあるという仕掛けがなされている。
 そうして、この絵画の左側の大きなキャンパスには一体何が描かれているのだろうかという謎が生まれる。もし、それが「ラス・メニーナス」なら、ベラスケスは僕ら鑑賞者と同じ位置にはおらず、マルガリータ王女と視線を交わさずに描いていることになってしまう。

 要するに、この絵画ではすべての人間の視線が部屋の空間の内側に閉じ込められており、すべての視線は部屋の外側に出ることができない。ここでは見られる物(絵画)と見る者(鑑賞者)の関係性が消滅している。

 哲学者のフーコーは『言葉と物』という本で、この視線の謎を解読し、この絵画の視覚表象は「自己完結」していると言っている。一般的な絵画においては、鑑賞者である僕らは絵画の外側にいて「見られる物と見る者」という関係を結ぶ。それによって絵画は成立する。画家(他者)が描いた絵画を、鑑賞者(自己)の脳が表象することによって、通常の絵画は完結する。
 しかし、この絵画では、鑑賞者である僕らの表象をフェリペ国王夫妻あるいはベラスケス本人が「代理(表象=representation)」しており、鑑賞者である僕らがいなくても絵画は空間的に自己完結している。絵画を鑑賞するという現実世界の表象とは別に、絵画自体が自らを表象することによって、「自らが存在している空間世界」を飲み込んでいるのである。
 この稀有な絵画が、人間の脳の表象という問題を考えてゆく上で重要な意味をなすのは、この空間世界の自己完結性にあるようだ。

 そして、リハビリテーションの視点から、この空間世界の自己完結という問題を考える場合に興味深いのは、半側空間無視患者や失行症患者の脳の表象としての「空間世界」の異常との関連性である。
 この脳の表象としての空間世界の異常には、視覚空間、聴覚空間、体性感覚空間(身体空間)のすべてが、あるいは自己中心座標系の空間と物体中心座標系の空間の両方が含まれる。しかしながら、それを異常と呼んでいるのは鑑賞者(他者、外部観察者、医師、セラピスト)であり、本人の異常に対する自覚はきわめて曖昧である。
 これは半側空間無視患者や失行症患者の「空間世界」が「自己完結」しているからではないだろうか? その自己完結した脳の表象を変えるのはとても難しいが、リハビリテーションによる適切な治療介入がなければ、彼らは空間世界を自己完結したままで、日々の生活をしなければならなくなる。

 ベラスケスの「ラス・メニーナス」の謎を解読することが、半側空間無視や失行症に対する病態理解やリハビリテーション治療の介入可能性を生み出すとは断言できないが、第15回日本認知神経リハビリテーション学会(横浜)のテーマ「半側空間無視と失行症:新たな理解への航海」にふさわしい絵画ではないかと思う。
 今年の夏は、この絵画の空間世界の意味を考えながら「横浜」に来てほしい。高次脳機能障害に対するリハビリテーション治療に困惑している大勢のセラピストに集まってほしい。そして、半側空間無視と失行症へのアプローチの可能性を共に論議したい。
 我々セラピストは、半側空間無視と失行症の脳の空間表象に、もっと効果的に治療介入できるはずである。

 2014年の3月、僕は、念願の「ラス・メニーナス」をスペイン・マドリードのプラド美術館で観て感動した後、イタリア・サントルソ認知神経リハビリテーションセンターでの「認知運動療法マスターコース」に参加した。
 サントルソのペルフェッティ先生の部屋の壁には「ラス・メニーナス」の複製画が掛けてある(図)。

サントルソのペルフェッティ先生の部屋
図:写真集「身体、物語、人生」より

←No.56へ No.58へ→

▲ ページ上部へ

pagetop