認知神経リハビリテーション学会

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メッセージNo.58  「パレーシア」

 イタリア・サントルソ認知神経リハビリテーションセンターでの「認知運動療法マスターコース,2013」の帰りに、久しぶりにパリに寄った。懐かしい左岸のサンミッシェルからカルチェ・ラタンのホテルに向かって歩いていた。途中に堂々たるコレージュド・フランス(パリ大学)があり、正面玄関前の木立の広場にひっそりと佇んでいる小さな立看板が目に止まった。

 その小さな立看板には「フーコー広場」と記されていた。これはフランス知識人の“エスプリ”だと思った。哲学者ミッシェル・フーコーに対する大学の敬意を感じた。よく大学では歴代の学長の肖像画を学長室に掲げるが、そうした形の権威はフーコーには似合わないことをパリ大学は知っている。もちろん、彼は学長ではなかったので肖像画を掲げる必要はないが、その哲学者としての素晴らしい業績と影響の大きさに対して、玄関脇の広場に小さな看板を立てて祝福するという大学のセンスに痛く感動した。

 学生たちが毎日大学に通う日々に、チラッと横目でその立看板を目にし、その緑の木立の広場を歩きながら、一瞬だけ自分とフーコーが繋がっていることが脳裏に浮かぶように計算されている。おそらく、こうした扱いをフーコーも喜んでいることだろう。

 フーコーには『臨床医学の誕生(神谷美恵子訳(みすず書房)』という名著がある。しかし、僕は処女作の『精神医学と心理学(神谷美恵子訳(みすず書房)』=『精神疾患とパーソナリティ(中山元訳・ちくま学芸文庫)』の方を何度も読み返す。「精神の病理と身体の病理が本質的に異なった次元のものか、あるいは本質的に異なる次元のものなのか」ということを考えさせられるからだ。

 それから、彼の代表作である『言葉と物』におけるペラスケスの名画「ラス・メニーナス」についての論考も忘れられない。ラス・メニーナスから「視線=まなざし」の意味について多くを教えられた。脳損傷患者の空間認知における自己中心座標系と物体中心座標系の問題を考えたり、鏡に映る身体について考える時にとても参考になる。

 また、サントルソ認知神経リハビリテーションセンターのペルフェッテイ先生の部屋の壁には、この「ラス・メニーナス」のポスターが掛けてある。研修中にフーコーやベラスケスについて先生と語り合ったことはなかったが、患者のカルテを見せて指導を受ける時、いつも傍らの「ラス・メニーナス」が目に入った。

 知を探求する人間の生き方や政治的な立場という点で、フーコーとペルフェッティ先生とは思想的に波長が合うように思う。一見、その思想は体制批判の言説に聞こえるが、その背後には体制を批判する者として自らが存在することに対する、抜き差しならない知の探求者としての覚悟がある。二人の言説は単なる現状への批判ではなく、常に新しい問いかけという形の提言である。だから、相手に対し問題への安易な解答を拒絶し、自らの提言への解釈を要求する。しかし、それによって他者との軋轢が時に発生する。

 それから、僕は、ペルフェッティ先生がサントルソ認知神経リハビリテーションセンターの空き地(駐車場)を「ヴィゴツキー広場」と、緑の木立に囲まれた散歩道の休息場所を「アノーキン広場」と呼んでいたことも思い出した。

 だから、コレージュド・フランスの玄関前で「フーコー広場」を発見した時、病気のために久しく会っていないペルフェッティ先生のことが脳裏をよぎり、少し感傷的になってしまった。

 一度、ペルフェッティ先生に「あなたはフーコーのパレーシアを実践している人だと思う」という内容のメールを送ったことがある。それは『身体と精神:ロマンチックサイエンスとしての認知神経リハビリテーション(協同医書)』の出版について連絡するメールでのことだった。原稿を読んでの僕の正直な感想だった。この本をパレーシアの視点から読むと、誰もがペルフェッティという話手がいかにパレーシアを実践しているか実感できるはずだ。

 パレーシア(parrèsia)とは「真理を語る人」という意味である。それは古代ギリシアの言葉からの引用で、「包み隠さず話すこと、あるいは、そう話す許しを得ること。言論の自由だけでなく、危険を冒してでも公益のために真理を話す義務」を意味する。そして、古代ギリシアの伝統的なパレーシアの概念にはいくつかの条件がある。ただ単に真理を語っても、それはパレーシアではない。

 パレーシアを使う個人は、彼が真理への確かな結びつきを持っているか、彼が彼自身・大衆の意見・文化のどれかに対する評論家としての役割を果たしているか、その真理の暴露が彼を危険な立場に陥らせるにもかかわらず、彼はそれを道徳的・社会的および/または政治的義務と感じて断固として真実を語るか、などという条件がつけられるからだ。

 これは簡単なことではない。さらに、パレーシアを使う人は、暴こうとしている相手より権限のない社会的地位にいなければならなかった。たとえば、教師に対して真理を話す生徒は間違いなくパレーシアであるのに対して、自分の生徒に真理を示す教師はパレーシアとは認められなかった。

 さらに重要なのは、フーコーのパレーシアに対する解釈である。フーコーによれば、古代ギリシアのパレーシアの概念は次のように要約すべきだと言う。

 「より正確に、パレーシアは話手が自己の真理への個人的な関係を表現し、自らの生命を危険にさらす言葉の活動である。なぜなら、彼は(自分自身同様に)他人を改善させる、あるいは助けるための義務として真理を語ることを承知しているからである。」

 「パレーシアの中で、話手は大胆に話し、説得の代わりに率直さを、嘘や沈黙の代わりに真理を、身の安全の代わりに死のリスクを、おべっかの代わりに批評を、利己心と道徳的な無関心の代わりに道徳的な義務を選ぶ。」

 僕は、日本にペルフェッティの「認知運動療法」を紹介した。しかし、彼がフーコーの讃える“パレーシアを語る人(話手)“であることを、まだ十分に伝え切っていない。それはとても難しいことだからだ。なぜなら、それを伝えることができるのは「パレーシア」を語る勇気がある人間だけだからである。つまり、「パレーシア」を語る人間の言葉を伝える者もまた「パレーシア」の話手でなければならないからだ。

 リハビリテーションの世界において、一体、誰が、「自らを危険な立場に陥らせるにもかかわらず」、「断固として真実を語る」のだろうか?

 そんな“勇気”ある人間の出現を期待したい。そうでなければ、リハビリテーションの世界は、結局のところ何も変わらないだろう。
 たとえば、リハビリテーションの世界にはいつも「患者のために」という言葉が溢れている。だが、医療者が「患者のために」という言葉(パレーシア)を発する時には真の“勇気”が問われるということだ。
 自分の心の奥底に潜む目に見えない恐怖と闘い、それを打ち倒し、自らの知の歩みに希望を託すことによってのみ、パレーシアを語る“勇気ある人(話手)”が出現する。
 そして、その言説はリハビリテーションの現状に対する厳しい“批判”に満ちたものになるだろう。
 そうでなければリハビリテーションを受ける患者の側には立てない。治療者が患者の側に立つということは、自己たちの治療のあり方に決定的な“問い”を投げかけることに他ならないからである。

 そのことに無自覚なリハビリテーションをめぐる言説は、すべて“空虚”である。

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