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■第六感
人間には五感が備わっている。五感とは「視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚」のことである。ところが、神経生理学者のマクロスキーによれば、さらに第六感というものがある。第六感はいわゆる「直感(インスピレーション)」ではない。それは「重さの感覚」だという。誰もが自分の身体の重さや物体の重さを感じて生きている。そして、この重さの感覚は謎に満ちている。
■奇跡のような話
奇跡のような話がある。
大きな水槽の中に身体を浮べて眼を閉じる。その水温を体温と同じにすると、身体が消えて心だけが残る。
だが、これは嘘だ。
■本当の奇跡は地球の上を歩くことである
重さの感覚について、初の日本人女性宇宙飛行士である向井千秋が興味深い証言を残している(立花隆の本より引用)。夫の証言によれば、彼女は宇宙飛行から地球に帰って来てから、宇宙飛行がどんなに素晴らしいものであったかなどということは、自分から話題にすることがなかった。不思議に思った夫は、もしかして宇宙体験なんてそうたいしたことじゃなかったのかも知れないと思って、とうとう一年半後のある日、自分から話題にしたという。
「そんなことないよ。本当に感動したんだよ、私」
「いちばん感動したことって何なんだい?」
「それは、もちろん、地球に帰って来た時よ」
「え?」
「地球に帰って来て、地球の重力と再遭遇したときよ。地球には重力があるんだって身体で知ったこと。これに比べたら、宇宙から地球を見た感動なんて小さいわね。地球に帰って来てから身体が感じた重力は予想もしていなかったことなのよ。この地球の重力は自分の身体で感じて初めてわかるものなの。」
つまり、本当の奇跡は地球の上を歩くことなのである。
■メーヌ・ド・ビランの”努力感覚”
デカルトの心身二元論に強く反論した同時代の哲学者のメーヌ・ド・ビランが興味深い論考を残している。その論考は意識の根底に世界への抵抗としての「努力感覚」を見出し、それを人間の生の中心におく。
彼はまず、身体が動く時の印象を「能動的印象」と「受動的印象」に区別した。
運動するもの、もしくは運動しようと意志するものは、私である。と同時に、動かされるのもまた私である。まさしくここに、我ありという人格の第一の単純な判断を基礎付けるために必要な、相関二項があるのである。しかし、私が思うに、まったく受動的な印象において、同じ基礎は見出されていない。
ここで言う「印象」とは、身体が動くときの感覚という意味で使われている。身体の動きの、生命体のあらゆる活動の第一に、経験の始まりに、この能動的印象と受動的印象の差異を位置付けた点に、彼の哲学の全てがある。
北明子の「メーヌ・ド・ビランの世界:経験する私の哲学」という本には、この点についての明確で美しい解釈が記されている。
意志的に運動することによって初めて、私が私であることを意識することが可能となり、経験の主体としての私が成立するようになる。
なぜ、意志的な運動(能動的印象)によって、私が成立するのか。メーヌ・ド・ビランは、ここで「抵抗」という概念を持ち込む。
私は意志的に手を伸ばし、あるものに触れかつ触れ続け、対象物の丸い形を認識する。
ところがこのとき同時に、ほどよい冷たさを感じる。さらには別の感覚器官からこれまた同時に、赤い色や甘酸っぱい香りの印象を得る。さて、丸い形、冷たさ、赤い色、甘酸っぱい香り、これらの諸変様のうち、私の運動に抵抗してくる対象物の性質であるといえるものは丸い形である。/つまり、知覚は、感覚のあとで、いわば感覚が変化することによって得られるものではない。/主体、すなわち運動を決定する意志なしには、また抵抗なしには、努力はなく、努力なしには認識もいかなる種類の知覚もない。
ここでは、私の存在は「意志」と「抵抗」との相互関係であるとされている。私の存在を意識することは「努力感覚」だという。リンゴを手にした時、抵抗してくるのは丸い形である。この表現にはリンゴの重さも抵抗してくるということを付け加える必要があるだろう。言い換えると、リンゴの丸い形と重さだけが私に抵抗してくる。赤い色や香りは、私に抵抗して来ない。ここに自己意識の始まりの秘密が隠されている。
リンゴが落ちるのを見て、思索するニュートンが万有引力の法則を思いついたという逸話がある。リンゴは重力に逆らえない。意志の源は、この引力への抵抗である。リンゴを手に持つ時、誰もが重さを感じる。だが、この重さの感覚は一定ではない。リンゴの重量は一定だが、長く保持していると筋肉が疲労して重く感じるようになる。手にした瞬間からリンゴの重量は変化していない。変化しているのは、頑張ろうと努力するあなたの意志だ。そして、その意志は重量ではなく重さの差異を感じている。
■差異と相対
ウェーバ−・フェヒナーの法則というのがある。ある感覚器官での同じ感知可能量(重さや明るさなど)の値を比べる場合、それ以下になるとその感覚器官では量の違いが識別できなくなるような、感知可能な差異の限界値というものがある。この限界値は「比率」であらわされ、その比率は広い幅にわたって一定となっている。たとえば、もし被験者の感じとれる識別限界が三〇グラム対四〇グラムまでだとしたら(比率3:4,差異一○グラム)、同じく三キログラム対四キログラム(比率三:四,差異1キログラム)はその人の識別能力の限界値になる。入力と感覚とのあいだに、感覚の量ないし強度が入力強度の対数になるという関係が成立するのである。つまり、「努力の印象」は、重さの差異の絶対値(量)ではなく、相対的な差異の関係によって生じる(ベイトソンの本より引用)。
■マクロスキーによる”重さの神経メカニズム”
この重量感覚の神経メカニズムは、現代神経生理学研究における重要な研究テーマの一つだ。そこには筋感覚としての「重さの感覚(重量感覚)」を巡る謎がある。それまでゴールドシェイダー(1898)やヴィント(1910)は重量感覚を「力の感覚」や「抵抗の感じ」と呼んでいた。
神経生理学者のマクロスキー(McCloskey)は、この重量感覚における神経生理学的メカニズムの研究に一生をかけた不思議な学者だ。
彼はまず、人間がある重量を保持している時に主動作筋へ機械的な振動刺激(バイブレーション)を加えた。そうすると緊張性振動反射が生じて主観的な重さの感覚が減少した。拮抗筋に振動刺激を加えると逆に重さの感覚は増強する。筋肉内の感覚器である筋紡錘が刺激されることで、グループIa線維という求心性神経を介して脊髄運動ニューロンの活動に変化が生じるのである。例えば、立位で下腿後面のアキレス健(下腿三頭筋)に振動刺激を加えると、体重の感覚がわからなくなって身体は動揺してバランスを崩してしまう。
彼は、こうした筋からの情報(筋紡錘からの入力情報)が脳の意識にのぼるかどうかを検証するために、自らの足部を手術によって切開し、筋や健を他動的に引っ張ると運動感覚が生じ、それを実感したと報告している。
そして、重さの感覚の神経生理学メカニズムとして、随意運動における運動指令の流れには2つあり、脳の運動野から脊髄の運動ニューロンを経て筋へ向うルートと、運動野から感覚野に向う遠心性コピー(efference copy)と呼ばれるルートを想定した。
後者の運動野から感覚野へ向う情報の流れは「随伴発射(Corollary Discharge)」とも呼ばれ、この遠心性コピーと筋紡錘から上行してくる求心性情報(GIa)との比較照合が頭頂葉でなされ、重さの感覚が意識化されるという仮説をつくった。
この関係は相対的であるため、随伴発射が増せば重さは重く感じ、減少すれば重さは軽く感じることになる。ある同一重量の物体を長く保持していると重く感じるのは、筋疲労に伴って運動指令としての随伴発射が時間とともに増強するからであると説明した。つまり、重さの感覚は、運動指令と実際の筋収縮力との「差異の意識」と考えられるのである。努力感覚は「差異の量」と相関する。重さの感覚は脳がつくり出すのであって、身体の皮膚に存在する触圧覚などの感覚受容器で捉えることはできないと結論づけられた。
例えば、整形外科疾患患者が筋力低下(筋萎縮)を来たしている場合、一生懸命に意志としての努力感覚を高めるが、これにより脳の随伴発射も高まる。しかしながら、実際の筋収縮(脊髄前角細胞の動員と発射頻度)の活性化は低く、その差異が大きいほど「重さの感覚」が変容してしまう。
■身体意識の源
つまり、重さの感覚は脳が自ら作り出している。この筋収縮に起源をもつ感覚が自己の身体意識を形成するための源の一つであることは間違いない。意図を有するということが主体としての心をもつ条件だとすれば、その情報の源は身体(筋肉や関節)に由来する。ここには意図の発生という問題の核心がある。
身体意識の源は関節や筋の感覚受容器から発しているのだろうか?身体が動けば心は抵抗と出合う。重力と出合うことで努力や重さの感覚が生み出される。抵抗がなければ、重力と出合わなければ、世界のすべてに対して想いのままであれば、自覚が生じない。心は世界の王様(支配者)ではない。
人間は地球の表面で誕生する。地球には重力がある。その重力が基準となって物体が存在する。重力は地球の中心に向っている。その重力の方向が基準となって3次元空間が定位される。動くという文字は、重と力と書く。重力に抵抗出来なくなった時、人は姿勢を保てなくなり、寝たきりとなり、やがて死ぬ。ビシャーは「生とは死に抵抗する総和で」と言っている。人間は、そうした抵抗する身体として生まれ、やがて死ぬということだ。地球上で生きている限り、私の身体は重力から自由になることはできない。
重力は身体にとって不変の環境である。身体は重力を変えることができない。身体は重力に抵抗し、その重力に適応することで自らの行為を形成する。
■「重さの感覚」の障害
人間が地球の重力下で生活してゆくためには、姿勢を保持したり移動することが不可欠であり、そのためには自分の体重や床反力をコントロールしなければならない。ところが、運動麻痺によって重さの感覚は変調を来たす。
整形外科疾患のみならず、中枢神経疾患でも「重さの感覚」の変容が頻繁に発生する。たとえば、片麻痺患者や脳性麻痺児は痙性による異常な筋緊張が出現して重さを感じ取ることができない。つまり、努力感覚が変容してしまう。また、小脳損傷による失調症やパーキンソン病患者でも重さの差異がわからない。
そうした中枢神経疾患患者は麻痺した自分の腕や脚を「とても重い」と表現することが多い。通常は、自分の身体を重いとは感じない。患者が麻痺した腕や脚を重いと感じるのは、筋緊張の異常が原因である。重さの感覚の障害は、脳が「筋収縮によって物体の抵抗を測定することができなくなった状態」であり、一種の認知障害なのである。
リハビリテーションの臨床においては、片麻痺に対して立位で患側下肢への体重計を用いた体重負荷訓練が行われる。だが、単に患側下肢に何キログラム体重負荷されているかを教示することと、自らの意志(努力感覚)で患側下肢に何キログラム体重負荷するかを調節することは大きく違う。前者はボトムアップで受動的で、後者トップダウンで能動的である。また、健側下肢と患側下肢の体重負荷量を”比較”することが重要である。
さらに、脳は、通常、”自らの身体の重さは感じない”ように消去している。脳の身体意識は、物理的な重量という絶対値を”ゼロ”とするのではなく、自己の身体の重量感覚を相対値として”ゼロ”に設定して、外部の物体の重さや抵抗力を計っているようだ。ここに筋収縮を介した”キネステーゼ(運動感覚)”の秘密が隠されている。脳損傷患者に生じているのは、そんな「重さの感覚」の認知障害なのであろう。
■ 「重さの感覚」のリハビリテーション
重さの感覚をめぐる話の最後に、「我に抵抗する物あり、故に我あり」と記しておこう。
重さの感覚は、私が世界に抵抗する「努力感覚(メーヌ・ド・ビラン)である。それは「随伴発射(予測としての知覚仮説)と実際の知覚(結果)との差異(マクロスキー)」に他ならない。
リハビリテーションの臨床で、セラピストは「重さの感覚」の回復に取り組む必要がある。
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