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随意運動の認知神経科学に大きな足跡を残したマーク・ジャンヌロー(Marc Jeannerod,1935-2011)が2011年6月1日に亡くなっていた。
昨日、偶然、2012年8月号の「Brain and Nerve 神経研究の進歩(医学書院)」を手にして知った。その研究業績を彼のラボに留学していた浜田隆史氏(現:独立法人産業技術総合研究所健康工学部門)が「マーク・ジャンヌロー:手の動きの解析から、心の生理学へ,p965-968」と題して偲んでいた。
ジャンヌローの本は「大脳機械論:意志の生理学白揚社,1988: 浜田隆史訳)」と「認知神経科学の源流(ナカニシヤ出版,2007: 浜田隆史訳)」の2冊が既に翻訳されている。また、彼は「手のプリシェーピング(preshaping)」や「運動イメージ」の研究でも有名である。2冊の本は随意運動と反射の関係性を理解するために何度も読み返した記憶がある。手のプリシェーピングや運動イメージの重要性はいつも片麻痺患者の上肢の訓練の時に想い返していた。
ジャンヌローは、運動科学が「反射理論から脱却」し、「運動イメージによる随意運動の生成へ」というパラダイム転換を図る上で、忘れることのできない研究者の一人である。ここでは、その研究の価値とリハビリテーションへの応用の重要性について書き残しておきたい。
以下、浜田隆史氏の「マーク・ジャンヌロー:手の動きの解析から、心の生理学へ」から引用抜粋した『文章』に、リハビリテーションとの関係性についてのコメント(・・・)を添える。
■『1960年代、行動の神経生理学は反射の理論に基づいていた。すなわち、外来の刺激が引き起こす外因的な行動に興味が集中していた。』
・・・これはシェリントンに由来する神経生理学の世界だけでなく、リハビリテーション医学の世界でも同様であった。その歴史的な影響下でファシリテーション・テクニックは展開された。
■『ジャンヌローは自発的な行動の生成メカニズムに興味を抱いた』
・・・これはパラダイム転換の契機であり、行動の認知神経科学の始まりだと言える。
■『彼は神経心理学にも深い興味を抱いていた。特に、“失行の患者は適切なコンテクス の中では自動的な動作を難なく行えるのに、指示された動作やコンテクスト外の動作はできないようにみえるのはなぜか”という根本的な疑問を抱いた』
・・・神経生理学者が神経心理学に興味を抱くかどうかは、結果的にその実験研究と臨床との距離を反映する。ジャンヌローは、フランスの高名な神経心理学者エカン(Henri Hecaen)の系譜とつながっているため、その実験研究はリハビリテーションの参考になる。また、失行症の不思議さに興味をもつことは、単に高次脳機能障害に興味をもつことに留まらない。それは「随意運動の認知的制御」に“まなざし”を拡大することにつながる。
■『当時、カイパース(Hans Kuypers,1925-1989)がサルの一側の錐体路を損傷する実験から、ある対象物(物体)に向かって腕を移動させる移動(到達)運動(reaching)と、その対象物を指で掴む把持動作(grasping)が別々の神経機構によるとの研究を行っていた。しかし当時、対象に向かう手と指の動きの性質をヒトできちんと調べた研究はなかった。そこで彼は決心し、何人かの被験者の把持動作を、毎秒50コマの16ミリカメラを用いて撮影した。
・・・この把持動作の解析の結果を見て、彼は驚き、次のように記しているという。
『私がまず驚いたのは、(Kuypersの実験結果に一致して)指と腕の動きが独立していることだった。腕が対象に向かって速やかに移動する一方で、指は徐々に動いて、確実に把持できるように形を整える。指が対象に接触し始める瞬間に腕の移動が停止できるために、腕を移動させるしくみと指の位置を決めるしくみは精密に同期するのだが、これら2つのしくみは別々に作動し制御されているように思われた。』
・・・さらに驚いたこととして、次のように記しているという。
『親指と人差し指の間隙が、移動が始まるとともに徐々に拡がり、やがて把持対象の大きさを超えた。その後、間隙は減少し把持の瞬間には対象に正確に一致した。指の間隙は、総移動距離のほぼ3/4の位置で最大になった。把持目標としてさまざまな大きさの対象を使うことで、最大の間隙が把持対象の大きさに密接に関係することを直ちに確認できた。』
・・・この「手指が対象に接触する前に合目的な形をなすという現象」は、「プリシェーピング(preshaping)」と名づけられた。それは「運動の予測的制御」を意味する。すべての随意運動は「構え」とも呼ばれる事前の予期的な「行為の準備」に基づいて遂行されている」ということの実証であった。
さらに、彼は「プリシェーピング(preshaping)」について鋭い考察を加える(図1)。それは、プリシェーピングが、運動している自分の腕や手を視覚的に見ながら運動調節するという、いわゆる視覚フィードバック制御ではない点を指摘している点である。プリシェーピングは、視覚フィードバックを遮っても生じる。事前に物体の大きさを見積もっていれば、閉眼でもプリシェーピングは生じる。
そして、ここから、ジャンヌローは、1981年に視覚運動システムは「空間(spatial)チャンネン」と「物体(object)チャンネル」に機能的に区分できると考えた。
図1 手のプリシェーピング(preshaping) by Marc Jeannerod,2002
Mouvement, action et conscience : vers une physiologie de l’intention.
Colloque en l’honneur de Marc Jeannerod /
27 et 28 Septembre, 2002
Institut des Sciences Cognitivesより転載
■『“空間(spatial)チャンネン”は視対象(object)が身体に対してどこに存在するかという空間情報を抽出して「移動(到達)運動」を導く一方、“物体(object)チャンネル”は視対象の大きさや形や向きなどの性質を抽出して「把持運動」を導く。
・・・同時期に神経生理学者のミシュキン(Mortimer Mishkin,1926-)が、視覚認知ルートが視覚中枢の後頭葉から頭頂葉へと至る「背側路(dorsal)=どこの空間)」と、後頭葉から側頂葉へと至る「腹側路(Ventral)=何の空間)」とに区分できるというサルでの実験結果も発表される。
・・・その後、ジャンヌローの元で研究したグッデーン(Melvyn Goodale,1943-)が、「背側路(dorsal)=どこの空間)」は“動作のための視覚(vision of perception)”であるが、「腹側路(Ventral)=何の空間)」は“認識のための視覚(vision of perception)”であるという仮説に発展させることになる(この部分は浜田隆史の論文より引用)。
・・・そして、この知見が、リハビリテーションの分野においては”身体空間(体性感覚空間)”という捉え方へと応用され、Perfettiが1990年前後に認知運動療法における“認知問題”を「空間問題」と「接触問題」とに区分することになる。
・・・しかし、ジャンヌローの研究は、ここからが最も重要である。なぜなら、彼は次のようにプリシェーピングを考えたからである。これを浜田は次のように解説している。
■『プリシェーピング(preshaping)は、自分の手の動きを見て得られる視覚情報(visual reference)を遮断してもこの性質は変わらなかった。つまり、プリシェーピングは視覚フィードバックによって制御されているのではない。では、プリシェーピングは何によって制御されているのか。ジャンヌローは「representation(表象)」があらかじめ存在し、それによって行動が予見的(anticipatory)に制御されるのだと考えた。「Representation」はジャンヌローの研究の根幹をなす概念なる。例えば実際に運動は行わないが、その運動を頭の中で想像する(motor imaging)ときに運動領野が活動することをPETを使って見出した。
■行為の”representation”は、のちに統合失調症の説明概念としての”sense of agency(随意的な運動を行った際にそれが自分で行った運動であるという感覚・主体感覚)の研究へと発展した。
・・・「ジャンヌローの研究は、ここからが最も重要である」と記したのは、彼の思考の根底には、随意運動においては「representation(表象)」があらかじめ存在し、「行動が予見的(anticipatory)」に制御されている」とするテーゼ(命題)があるからに他ならない。
・・・もし、リハビリテーション治療(理学療法・作業療法、あるいは運動療法)が運動麻痺の回復を目指すのなら、すべてのリハビリテーション治療に、このテーゼ(命題)を応用し、それを運動学習方略の基本原理とすべきだからである。
・・・ジャンヌローは処女作のタイトルを『大脳機械論(Le Cerveau-Machine)』としている。しかし、その意味を誤解してはいけない。このタイトルは「脳は随意運動をコントロールする機械である」と捉えるメタファーではないのだ。そのように科学者が捉えることによって随意運動が反射理論で説明されて来た歴史を考察しているのであって、いわば「大脳という機械がなぜ”表象(representation)”という心的機能を生み出すのか?」、「特に、その心的かつ予見的な表象こそが随意運動をコントロールする大脳のメカニズムの謎を解く鍵だ」と主張しているのであり、その思考転換に「認知神経科学(cognitive- neurosciences)の誕生」という1990年前後の科学的潮流を見出しているのである。
・・・そして、認知運動療法もまた、その科学的潮流とともに理論的、臨床実践的に大きく展開してゆくことになる。
・・・ジャンヌローは、一体、この随意運動においては「representation(表象)」があらかじめ存在し、「行動が予見的(anticipatory)」に制御されている」とするテーゼ(命題)のアイデアをどこから得たのだろうか? それについては次のように浜田が解説し、ジャヌンローも自身の自伝の中で語っている。
■『ジャンヌローはフランス語による彼の処女作『Le Cerveau-Machine』を準備するにあたって、19世紀の哲学者メーヌ・ド・ビラン(Maine de Biran,1766-1924)に大きな影響を受けた。メーヌ・ド・ビランは内観を限界まで突き詰めることで、随意運動に伴う「努力の感覚(le sentiment de l’effort)」の存在と重要性を指摘した。』
■メーヌ・ド・ビランによれば、行為者自身がその行為の主体あるいは原因であることを示すのが、努力の感覚である。この考えは、コロナリー放電が随意的行為の指標だとしたトイバー(Hans-Lukas Teuber,1916-1977)の考えと完全に整合すると私は思った。理論を実験に移すにあたって、メーヌ・ド・ビランの努力の感覚とトイバーのコロナリー放電の間のこの近似性は、励みになった。この後、見出すべきものは、行為の内部、したがって主体の内部に突き進むことを可能にするような実験のセッティングを見つけることだった。20年以上の後にようやく、”自己意識”や”動作主感覚”という問いに答えを得る実験に至ることができた。』
・・・コロナリー放電とは「随伴発射(Corollary Discharge)」、あるいは運動の「遠心性コピー(efference copy)」のことである。随意運動時、大脳皮質の運動野(motor area)から運動指令(motor command)は脊髄に下行してゆく。しかし、同時に、「運動によってどのような知覚が得られるか?」という「遠心性コピー(efference copy)=随伴発射が頭頂葉に至り、実際の運動後の感覚フィードバックとの「比較照合(comparator)」される。つまり、この考え方では身体の「感覚運動システム(sensorimotor system)」とは別に、脳内に一種の「予測装置(predictor)」と「比較装置(comparator)」を想定している。なお、脳内に随意運動と結果の比較装置を初めて想定したのはロシアの運動生理学者のベルンシュタイン(Bernstain,N)であった。
図2 運動の「遠心性コピー(efference copy)と随伴発射(Corollary Discharge)
・・・この随伴発射の神経生理学的メカニズムはロシアの神経生理学者アノーキン(Anokhin,1962)やルリア(Luria)が提唱した「機能システム(functional systems)」の概念とほぼ同様で、認知運動療法の訓練のすべての前提条件となっている。つまり、訓練はすべて「認知問題―知覚仮説―解答」の形式なのだが、随伴発射が「運動によってどのような知覚が得られるか? = 知覚仮説=運動イメージ」に相当し、実際の運動後の感覚フィードバックとの「比較照合」が「解答」に相当する。認知運動療法を勉強している者なら、このアノーキンの脳の機能システムとペルフェッティの認知運動療法の関係性が、ジャンヌローの考え方とも完全に一致していることが理解できるだろう。
・・・メーヌ・ド・ビランについては、以前、「宮本省三 : 運動の認知障害と理学療法, PTジャーナル,32,p564‐570,1998」で記したことがある。「身体論の古典に学ぶ」という箇所で、メーヌ・ド・ビランの哲学、ウィリアム・ジェームスの心理学、カッシーラの記号論、ヴァイツゼッカーのゲシュタルトクライシス、ヴィゴツキーの心理的道具、メルロ=ポンティの現象学、ピアジェの認知スキーマ、ギブソンのアフォーダンスを取り上げたが、その冒頭にメーヌ・ド・ビランを配位していることから、僕の想いが伝わるはずだ。次のように書き始めている。
[身体論の古典に学ぶ]
ルネサンス以後の哲学者や心理学者たちは、宗教とは異なる純粋な学問的視点から身体の深淵を記述しようとした。そのひとつに「空間には、視覚空間、聴覚空間、触覚空間などがあり、それらがモザイクのように合わさったものとして身体の空間性がある」とする哲学的、心理学的命題が存在する。脳がどのように空間を認識しているかを問うこの命題には、人間の空間認知(外部空間)と身体の空間性(内部空間)とが共存している。その背後に「空間を生きる」ことの謎がある。何人かの身体論や空間認知についての論考を素描してみよう。
[メーヌ・ド・ビランの哲学]
メーヌ・ド・ビラン(Maine de Biran,1766-1824)は、あらゆる認知の出発点を身体に還元する稀有な哲学者である。たとえば、次のような記述である。「私は意志的に手を伸ばし、あるものに触れかつ触れ続け、対象物の丸い形を認識する。ところがこのとき同時に、ほどよい冷たさを感じる。さらには別の感覚器官からこれまた同時に、赤い色や甘酸っぱい香りの印象を得る。さて、丸い形、冷たさ、赤い色、甘酸っぱい香り、これらの諸要素のうち、私の運動に抵抗してくる対象物の性質であるといえるものは丸い形だけである。つまり、知覚は、感覚の後で、いわば感覚が変化することによって得られるものではない。主体、すなわち運動を決定する意志なしには、また抵抗なしには、努力はなく、努力なしには認識もいかなる種類の知覚もない。」ここでは感覚から知覚へと向かう連続性が寸断されている。運動は知覚を生起するが、決して感覚を生起するものではないことが主張されている。
・・・また、メーヌ・ビランは、同時代のデカルトの心身二元論に強く反論したことでも有名だが、その身体哲学は意識の根底に世界への抵抗としての「努力感覚(sense of effort)」を見出し、それを人間の生の中心におく。特に、彼は身体が動く時の印象を「能動的印象」と「受動的印象」に区別する。「運動するもの、もしくは運動しようと意志するものは、私である。と同時に、動かされるのもまた私である。」と述べている。彼は、生命体のあらゆる活動の第一に、その経験の始まりに、”身体が動くときの感覚がある”とした。
・・・僕は、北明子の「メーヌ・ド・ビランの世界:経験する私の哲学」という本で”運動こそが主体の源である”ことを学んだ。
『意志的に運動することによって初めて、私が私であることを意識することが可能となり、経験の主体としての私が成立するようになる。』
・・・晩年のジャンヌローは、身体の「所有感覚」や「主体感覚」について研究し、統合失調症患者の変容する主体意識の仮説につなげたが、それもメ−ヌ・ド・ビランの影響に根ざしているのかも知れない。
・・・さらに、メーヌ・ド・ビランの「努力感覚(sense of effort)」は、人間の「重さの感覚」と深く関係しているように思う。神経生理学者のマクロスキー(McCloskey D)は、従来の五感に「第六感」を加え、それを「重量覚」と呼んだ。彼もまた、重さの感覚の神経メカニズムを運動野からの運動指令を「脊髄の前角細胞に至る経路」と「随伴発射(遠心性コピー)によって頭頂葉に至る経路」で説明している。
・・・2004年にサントルソ認知神経リハビリテーション・センターで研修中にペルフェッティにメーヌ・ド・ビランの哲学をどう思うか?」と尋ねたことがある。彼は「随分前に勉強した。興味があるならピサ大学の教授を紹介してやろう」と言われて怯んだことがある。
・・・いずれにせよ、ジャンヌローがメーヌ・ド・ビランを読み、随伴発射という神経生理学的知見と手のプリシェーピング(preshaping)という運動学的知見を結び付け、予見的な脳の表象としての運動イメージの研究へと至ったことを知ってとても嬉しい。
・・・そして、ジャンヌローがペルフェッティの認知運動療法の臨床を見たら、きっと喜ぶはずだ。確か、ジャンヌローとリゾラッティは交流があった。リゾラッティとペルフェッティも交流があった。リゾラッティはジャンヌローに「君の手のプリシェーピングの研究はリハビリテーション治療で非常に注目され、イタリアの認知運動療法で臨床応用されている」と伝えなかったのだろうか? ペルフェッティはジャンヌローの研究に注目していた。
リハビリテーション・セラピストは、運動麻痺患者の手のプリシェーピング(preshaping)を回復させる必要がある。片麻痺患者に「手の空間を物体の大きさや形に合わせてから掴む」ことを教える必要がある。そのためには”脳の表象(representation of the brain)”としての”運動イメージ(motor imaging)”を適切に活性化させなければならない。
繰り返すが、手のプリシェーピングは視覚フィードバックを遮断しても生じる現象である。そして、それは歩行の踵接地期の足の背屈としても生じている。さらに、運動の予測制御は運動学習の最も重要な要因であり、それを「知覚情報の予期」と定義すれば、すべての目的ある動作や行為でプリシェーピングは生じている。
ペルフェッティ(Perfett C)は、『認知運動療法 : 運動機能再教育の新しいパラダイム,協同医書出版,1998』の中で、それを「ウズナーゼ(Uznadze,1966,ロシア学派)の言う”構え”の形成、つまり運動行動を起こすためのセッティングを目的とするものであり、Towe(1973)が”受け取り準備”と定義する”注意の喚起”を目的とするものではない」と述べている。つまり、この背後には「運動後の感覚フィードバック」というサイバネティクスの考え方を乗り越えようとする思想がある。
Toweも「生物を受動的な受信機とみなしてきた古い視点は、人間を能動的な実験者と捉える現在の我々の視点にとって代わられた。人間は、環境に働きかけつつインプットを求める。つまり、特定のアウトプットの帰結として特定のインプットを期待するのである」と述べているように、単に運動を感覚フィードバックによって修正することで運動学習が生じるのではなく、ある運動によって”期待する知覚”を確実に得ることができるようになることで運動学習が生じる。
それは主体の受動的な脳の表象ではなく能動的な脳表象である。つまり、運動は、環境への予期的な知覚探索の連続なのである。そして、この一点にペルフェッティが訓練を認知問題−知覚仮説−解答」と規定した「知覚仮説(=運動イメージ)」の本質がある。
脳の表象としての知覚仮説は、人間の行為の原理である。運動だけではない。言葉を話すことも行為だが、誰かに話すことは、単に何かを話しているのではない。相手に何かを期待して話しているのである。こうしてパソコンに文字を入力し、文章を書いているのも、単に何かを書きたくて打っているのではない。あなたに何かを期待して書いているのである・・・。
ジャンヌローの研究はリハビリテーションの臨床の中で生き続けてゆくだろう。プリシェーピングとは、「手の空間を物体の大きさや形に合わせて掴むイメージの想起」のことである。それは視覚フィードバックを遮断しても生じる。それは「運動―感覚フィードバックー調整」という神経ループとは違う。もう一つの重要な運動学習ループである。
人間は行為の遂行後に脳を改変するのみならず、行為の遂行前に認知的な予期(予測=運動プログラム/認知過程)を変えて脳を改変することができるのだ。
そこには運動機能回復を目指す新しいリハビリテーション治療の可能性が潜んでいる。
だから、僕は、ジャンヌローを忘れない。
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