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メッセージNo.61  “行為の難しさ”についての覚書
−フーコーの『精神疾患とパーソナリティ』を読んで考えたこと

現在の行為と、この行為を過去の出来事として語りうるという意識が重なり合い、錯綜する。
−Michel Foucault,1954

1.

 ピエール・ジャネ(Pierre Janet、1859-1947)というフランス人の精神科医がいる。若い頃はサルペトリエール病院のシャルコーの下で睡眠療法や解離について研究し、晩年にはコレージュ・ド・フランスの教授に就任した。
 彼は、身体が深く傷つけられると強い苦痛が発生するのと同様に、心が深く傷つけられると強い苦痛が発生し、“心の病”に至ることを研究したことで有名である。1887年に「心的外傷(trauma)」という言葉を造語し、フロイトよりも先に無意識の病理を発見したと評価されている。
 その際、ジャネは、ジャクソンの中枢神経系の階層説に基づく「進化と解体」の概念を、社会的なレベルにおける「行為の変容」の地平に拡大して次のように考察している。

 人間は病によって、社会的な発達の途上において獲得された複雑な行為が遂行できなくなる。そして、潮が引いた後のように、原始的な社会的行動や前社会的な反応があらわになる。

 医師やセラピストであれば、このジェネの学説から前頭葉損傷や認知症患者の幼稚な異常行動、あるいは脳卒中後の片麻痺における連合反応や共同運動といった低次レベル(脊髄・脳幹)の運動異常を想起するだろう。
 そして、これはジャクソンの運動制御の中枢神経系の階層説に根ざしてはいるももの、それをより応用した社会的だが外部観察的な”行為の難しさ”への”まなざし”だと言える。

2.

 一方、哲学者のミッシェル・フーコー(Michel Foucault,1926-1984)は、処女作『精神疾患とパーソナリティ(1954)』の第?部「病と心理学的な次元」の中で、このジャネの学説を引用しながら、別の視点から”行為の難しさ”について論じている。それはジャネと同様に社会的だが、もっと内部観察的な”行為の難しさ”への”まなざし”である。
 そして、フーコーは「患者は、自分の周囲の現実を信じることができない。患者にとってそれは“難しすぎる行為“なのである」と指摘している。
 一体、ここで指摘されている“難しすぎる行為“とは何だろうか? それは「多くの同時的な行為が重層している行為」のことだ。フーコーは、その喩えを次のように説明している。

 狩りで獲物を殺すのは、一つの行為である。その後で、狩りで獲物を殺したと語るのは、別の行為である。しかし、狩りにおいて獲物を狙い、殺しながら、後に他者に自分の武勇伝を物語るために、狩りで殺し、追跡し、狙っているのだと自分に言い聞かせること、すなわち、追跡という実際的な行為と、物語という仮想的な行為を同時に行うことは二重の行為である。これはごく簡単な行為のようにみえるが、他の二つの行為よりもはるかに複雑な行為である。これは現在の行為でありながら、すべて時間的な行為の萌芽である。そこでは現在の行為と、この行為を過去の出来事として語りうるという意識が重なり合い、錯綜する。このように、一つの行為の“難しさ”は、その行為が統一的に展開される際に、そこに含まれている要素的な行為の数で測定することができる。

 つまり、フーコーの言う“難しすぎる行為”とは、中枢神経系の階層説に根ざした難しさではないし、いわゆる「行為の巧緻性」、「行為の手続き」、「行為の空間性、時間性、強度」などの難しさでもない。また、運動制御に連動する知覚、注意、イメージといった「行為の認知過程」の難しさでも必ずしもない。
 それはごく単純な行為にも含まれている不思議な難しさである。つまり、「現在の行為を遂行し、後でその行為について誰かに話す」ということが前提条件とされている難しさのことである。
 患者が行為をとても難しいと感じるのは、運動や認知の難しさだけではないのだ。ある行為を遂行し、それについて後で誰かに話すということは、ある行為を遂行する時点で既に社会的な意味が暗黙的に求められているということだ。これは現実に遂行する行為とそれを後で物語ることの同時性である。患者の脳が経験を制御しなければならないのは、単に現実に遂行する行為だけではなく、誰かにその経験を伝えなければならないという社会的な行為との二重性である。
 フーコーは行為の難しさに同時性(=意識の二重性)が含まれていることを、次のように解釈している。

 患者にとって困難なのは、現前において眺めること=眺められること、言語において語ること=語られること、物語において信じること=信じられることという<裏側>のある行為である。これらの行為は、社会的な地平で繰り広げられる行為だからである。対話というものが、対人的な関係の一つの様式となるためには、社会的な発展のすべての段階が必要だったのである。これが可能になるためには、それぞれの身分の階層構造のもとで、動きのない社会、命令の言葉しか許さない社会から、人間関係が平等な社会に移行する必要があった。この平等な社会では、実際の意見の交換、過去への忠誠、将来への取り組み、さまざまな観点の相互性が許され、保証される。そして、対話を行うことができない患者は、この社会的な発展を遡行する。どの病も、その重篤さの度合いに応じて、発展した社会において初めて可能になった何らかの行為を廃絶する。そして、病はこうした行為の代わりに、もっと原始的な行動形態を示すのである。

 ここでは、ジャクソンの中枢神経系の「進化と解体」というテーマから発生した陽性徴候と陰性徴候が社会学的な行動変容の地平で解釈されている。人間の行為は社会脳(ソーシャル・ブレイン)の産物であることを前提としている。行為の難しさは、その病をもつ人間を取り巻く社会の内に原始的行動形態として出現してくるのである。もし、社会の人間関係が平等でなければ、他者との対話が必要なければ、自己の行為の意味について語る機会は失われるだろう。

 リハビリテーションの臨床において、患者の行為の難しさを捉えようとする時、単に運動や認知の難易度の視点に留めてはならない。ベルンシュタインに由来する複数の関節運動と複数の筋群の組み合わせとしての運動の自由度や、行為の目的を達成するために必要な認知過程の組織化という視点だけでは、フーコーの指摘する”行為の難しさ”は捉えきれない。
 まず、セラピストは患者と平等な立場で対話することが重要である。そして、行為の難しさについて語ってもらい、行為の同時性(=意識の二重性)という視点から、行為の難しさの本質を発見すべきであろう。

3.

 フーコーの「行為の難しさ」への“まなざし”は、人間の社会脳によって営まれる行為に向けられている。それは行為を骨、関節、筋といった運動器官の産物と捉えたり、行為を運動の感覚フィードバック・システムの産物と捉える視点を越える必要性を投げ掛けている。
 人間の行為はヴィゴツキーが人間の歴史に根差した社会の産物だと言っているように、あるいは近年の脳科学が行為をミラーニューロン・システムの産物と見なしているように、行為を自己と他者との関係性の産物だと解釈する必要がある。
 さらに、ペルフェッティが指摘しているように、行為の記憶は脳の中で眠っているようなものであり、人間は自らの行為の記憶を生きいきと詳細に言語で語ることができる。

 その上で、ここでは発達障害児の”行為の難しさ”について考えてみよう。発達障害児では運動統合障害(dyspraxia)と呼ばれる行為の失行様症状が発生する。そして、模倣や道具使用の操作に問題が発生しやすい。それは一般的に感覚統合や運動の協調性や巧緻性の問題と解釈されている。しかし、臨床で子どもたちに自らの行為の説明を求めてみよう。彼らは、さまざまな行為を遂行することができるが、その状況を語ることが出来ないことが多い。また、他者の行為の説明を求めても語ることが出来ない場合が多い。その結果、社会生活において不適応な行為を発現させてしまう。
 子どもたちの問題は、行為が出来るか出来ないかではなく、意味ある行為が状況や文脈に応じて適切に出来ないという点である。したがって、行為の社会学習のためには、家庭やリハビリテーションの臨床で子どもに行為を要求する時、「現在の行為を遂行し、後でその行為について話す」ということが前提とされていなければならないのではないだろうか。単に運動の協調性や巧緻性を反復練習しても行為の社会学習には繋がらない。言葉で語ることによって、行為の意味的なエラーを発見できるはずである。発達障害児たちは、行為できるが、まだ行為の意味は理解していないのである。
 そして、同じことが片麻痺などの運動機能回復についても言える。失行症や半側空間無視といった高次脳機能障害を有している患者ではなおさらである。特に、左半球損傷に由来する失行症患者は「失語症」を伴っており、自己や他者の行為を語ることができないのみならず、それらの行為の意味を認識できないことが多い。この失行症の病態にも行為の同時性(=意識の二重性)が関与していると解釈すべきであろう。
 さらに、各種の整形外科疾患や痛みを有する患者の場合にも同じことが言えるように思う。自己の行為について語ることは、自己の身体意識について語ることに他ならないからである。

4.

 長い間、行為の難しさは複数の身体部位の動きが錯綜した時に発生すると考えられてきた。リハビリテーション医学における行為への“まなざし”の歴史は、関節運動、筋力、反射、知覚、注意、運動イメージへと、その視線を多様化させて来た。
 しかし、そこにはフーコーの指摘する行為の難しさへの“まなざし”が欠如している。セラピストが臨床で患者の行為を分析する時の視線は、まだ行為の難しさの本質に届いていない。まだ、「人間の行為の難しさ」の本質を捉えてはいない。

 また、この行為の難しさの本質をめぐる論議には「人間に特有な脳の発達や学習の秘密」が隠されているように思う。
 学生が勉強する時のことを考えてみよう。まず、「教師が説明し、それを学生の脳が理解する」という一般的な教育−学習方法(勉強の仕方A)がある。ところが、教師が説明する前に、「これから私が説明したことを理解し、その理解した事柄を後で誰かに伝えるように」と指示したとしよう。この教育−学習方法(勉強の仕方B)では、他者に伝えることが義務づけられている。
 問題は、この教育−学習方法の差異(勉強の仕方AとBの違い)である。この小さな僅かな差異が、脳の発達や学習の大きな違いを生み出す可能性がある。そして、言語を有する人間の脳だけが、特殊な教育−学習方法(勉強の仕方B)が可能なのである。
 人間の脳と他の動物の脳の決定的な差異は「言語」の有無である。動物としての人間が人間になってゆくための脳の発達や学習には、行為と言語の相補性が不可欠である。そして、行為は記憶と現実が出会う場所で生まれるが、現実の行為はすぐに過去となって流れ去ってしまう。この“時間”の流れは”意識の流れ”であり、、ベルクソンが『物質と記憶』で「純粋持続」と名づけたものだ。きっと、ジャネもフーコーもベルクソンを読んでいたはずだ・・・。

5.

 いずれにせよ、行為を誰かに語るためには記憶を想起する必要がある。もし、自己の行為を他者に物語ることができなければ、現実は混乱し、夢や幻と区別できなくなり、人間関係は崩れ去ってしまうだろう。
 人間の「行為の難しさ」の本質は、行為を制御する脳の中にあるのではない。行為しつつ、その自己の行為を後で他者に物語るという同時性(=意識の二重性)の中に潜んでいる。
 この「現在の行為と、行為を過去の出来事として語りうるという意識の重なり合い」は、すべての患者の運動麻痺の回復と無縁ではない。運動麻痺の回復もまた脳の発達や学習の産物だからだ。
 セラピストは、ペルフェッティが強調しているように、「患者に語る」のではなく、「患者と語る」べきだ。もっと、患者の「経験の言語」を重要視しなければならない。
 人間は行為の経験を言語化できる。セラピストはそこから学習に向かう意識の志向性のエラーを発見することができる。そして、人間は行為の記憶の表象と現実の行為の表象とを比較しながら生きている。セラピストは、そこから患者の脳表象のエラーを確認し、治療すべき内容を発見することができるはずだ。

 そうして、セラピストはすべての患者の脳が“個人の行為の来歴を生きている”ことに気づくだろう。
 行為のリハビリテーション治療は、外部刺激や単なる意志によって行為を活性化するものであってはならない。行為の遂行と行為を言語で物語るという同時性(=意識の二重性)を介して脳の認知過程を再組織化すべきである。また、過去と現在の行為の表象を比較させ、その差異を自己認識し、行為の予期(予測)を改変することが、未来の回復へと患者を導くであろう。

 “行為の難しさ”とは、行為の意味のことである。
 その行為の意味を理解し合い、共有するために、人間は他者に語るのである。

文献

  1. ミッシェル・フーコー(中山元訳):精神疾患とパーソナリティ,ちくま学芸文庫,1997.
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