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その手は物を押したり掴んだりするときは必ず出てくる.
−ある前腕切断患者の言葉
幻肢(phantom limb)とは「手足の記憶」である。それは「失った手足の心的な実存感」である。現代の幻肢研究の第一人者であるメルザックによれば、最初の報告は1866年に神経学者のミッチェルがアメリカの一般雑誌に書いた次のような小話だという。
ジョージ・デッドロー氏は南北戦争中、片手を切断される。後に、彼は病院で知らないうちに両足も切断されていたことを知る。あるとき、左足が急に痙攣を起こしたので彼は片腕でさすろうとしたが、力が入らないので付き添い人に「ちょっと左のふくらはぎをさすってくれないか」と頼んだ。すると「ふくらはぎをだって?」 両足とも切られてもうないよ」という返事が返ってきた。
ミッチェルは手足が切断された後にその存在を感じることがあるという現象は科学を標榜する医学の世界では決して信じてもらえないと考え、医学雑誌ではなく一般雑誌に発表した。幻肢は四肢切断患者のほぼ全例に出現し、その70%には「幻肢痛(phantom pain)」が発生するとされている。
我が国における最初の報告はわからないが、戦時中の1944年(昭和十八年)九月十日に「手」と題された本が出版されている。何年か前に神保町の古本屋の片隅で見つけた。第2次世界大戦の東京大空襲を生きのびた本だ。当時、三千部印刷され、一冊の定価三円八十銭とある。著者は橘覚勝。略歴には明治三十三年生、大正十二年東京帝大文学部心理学科卒業、東京都立高校教授、軍事保護院職業顧問と記されている。そして、序文は次のように始まっている。
去る昭和十二年大東亜戦線の孤線としての日支の抗争が勃発するに際して、私は傷痍軍人職業顧問として、軍事援護の一翼として国家総力戦体制の中に活躍し得る光栄を得、心からの喜びと誇りとを感じつつその仕事にたずさわって今日に至った。その間多数の傷痍軍人に面接し、私の力の及ぶかぎり、職業の斡旋や指導や補導にあたって、彼らの奉公の精神を喚起し、再起の陣営を確保せしめるに努めた。そのとき私は一面吾々人間の手、そしてそのはたらきの如何に重要であるかをつくづく考えたことであった。その思索と反省とが累積して結局この書をなしたということができる。
いつの世にも、どんな状況下であっても、自らの学問上の思索を人間の苦悩の軽減に役立てようとする人がある。彼もその一人である。
特に、彼は傷痍軍人の切断後の「感じる手」を深く研究している。感じる手とは、切断によって失った手の感覚のことである。医学的には幻肢と呼ばれるこの心理現象が存在することは既に知られていたが、彼は11名の患者の主観的な言語記述によって、その実存を再確認している。以下は、患者の「感じる手」についての証言記録だが、幻肢の実存のみならず、感じる手を心の中で動かしていることがわかる。
四肢切断患者たちは「手の幻影」を明確に意識して動かすことができるし、そこに痛みを感じている。そして、戦後、幻肢を研究したのが整形外科医で我国のリハビリテーション医療の先駆者として有名な大塚哲也である。彼は幻肢を次の5つのタイプに分類した。
こうした手の幻影を脳に残った身体イメージと解釈すれば、誰もが幻肢の存在を認めるだろう。過去の行為の記憶は心の中に残っている。目を閉じれば亡くなった者の声を聴くこともできるのだから、手の幻影が生じても決して不思議ではない。だが、それは大塚が分類しているような幻肢の残存形態についての存在を認めるということに過ぎない。
確かに、それは手足の形の記憶である。だが、この手足の幻影は科学が進歩してもよくわかっていないように思える。たとえば、手の幻影は触覚を有しているのだろうか? 幻肢で物体を掴むと触感を感じるのだろうか? 頭の中で幻肢を動かして、患者は物体の表面や形を感じるだろうか?
残念ながら、橘はその質問を患者にしていない。しかし、物体と断端を接触させる興味深い実験を行っている。さまざまな物体(ボール紙、ヤスリ紙、ガーゼ、タオル、ガラス、ブリキ、金網、ベニヤ板、ゴム板など)に、健側の手で触れた場合と断端で触れた場合の「受動的な触感」を比較している。もちろん、幻肢の形や位置が患者によって異なるため、同じ断端の尖端に物体を接触させたとしても完全に条件が一致するわけではないことには留意している。実験結果は、次のようであった。
被験者A:感じの手で拳を作って対象に触れている感じ。物に触ったということだけを取り出して言えば、感じは却って健肢の場合よりも鋭敏である。ビリッと肩まで響く。さらに対象が冷たい時はそうである。しかし、対象が何であるかはっきりしない。スーと浮き上ったような感じて厚さ硬さははっきりしない。厚く感ずるときもボーと厚いように感じ、ザラザラしたものは特に触れたという感じが強い。
被験者B:物に触れると神経にビリッと響くが、対象の見分けがつかぬ。ボーとしているような感じで細かなことは判らぬ。何に触っても最初は同じような感じである。厚さ、薄さ、硬さ、軟らかさなどははっきりしない。冷たい感じは鋭い。
被験者C:感じの手を開いて触っている感じ。感じは鋭い。冷たいものは特にそうである。対象と感じの手の間に何か挟まっている感じ。断端部の筋肉があるためか、何か軟らかいものがその間に挟まっているような感じ。敷枚ものが重なっているような対象では、その重なりは全然感ぜられず、厚い一枚の対象を感じる。
被験者C:切断肢の方が感じが鋭い。対象を見分けようとするが、何か霞のかかった感じで、はっきり分らぬ。
ここで驚くべきは、患者たちが「感じの手」と呼んでいるように、「患者たちの脳は手の幻肢で触感を感じ取っている」ことだ。それは手の幻肢は物体を感じ取れることを意味しているように思える。
しかし、実際に物体と接触しているのは断端である。この断端の触覚世界は全体として鋭敏化しているようだが、ザラザラ、硬さ、軟らかさといった触圧覚は細分化できないのかも知れない。つまり、触れたという感じは健側手よりもむしろ鋭敏だが、何に触れているかという「知覚」は困難なようだ。感覚情報が入って来ないから知覚できないのだろうか? それとも手の幻肢では触覚と運動覚が解離して、物体を多感覚的に知覚できないからなのだろうか?
さらに、橘は切断肢を使って閉眼状態でさまざまな物体に直接触れさせ、物体の形態(財布、万年筆、懐中時計、煙草の箱、眼鏡ケース、文庫本、灰皿、電球、櫛など15種)を識別させている。つまり、「能動的な触感」の検査である。結果は期待を裏切るもので、ほとんどまったく形態を識別できなかった。断端部の皮膚や中枢部の関節からの感覚入力があっても、五本の指をもつ手がなければ物体の形態は認識できないようだ。
これで終わりではない。さらに、奇妙な話が記されている。ある患者は「残存肢の中に手の幻肢が入っている」と言っている。これは大塚の分類でいう断端嵌入型の例である。この場合、残存肢と幻肢との二つの空間は客観的には相重なっているが、内省上はそれぞれ独立した空間として感じられている。客観的には同じ空間に属しているものが、主観的には二つの異なる空間として表象されている。
また、ある患者によれば、目の前に物体を置き、それを視覚的に確認した後、目を閉じ、手の幻肢をリーチングして物体に持って行く。本当の手ならリーチングは物体の外側に接触して終わる。しかし、その患者は「手の幻肢が物体の中に入ってゆく」と言っている。つまり、決して実際には占めることのできない物体の空間の中に、手の幻影が表象されていることになる。
こうした「残存肢の中に手の幻肢が入っている」とか、「手の幻肢が物体の中に入ってゆく」という現象は過去の記憶ではない。現在において生じている現象であると言えるだろう。
手の幻肢には過去と現在の手の幻影が混在している。
その手の幻影は「透明な手」なのに、形があり、物体を感じ、動かすことができる。
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