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1.発達へのダイナミックシステム・アプローチ
エスター・テーレン(Esther Thelen)の『発達へのダイナミックシステム・アプローチ −認知と行為の発生プロセスとメカニズム(新曜社,2018)』が出版されている。子どもの発達の運動研究の本である。乳児を垂直位に抱き上げた状態で足部を床に接触させて体幹を前傾させると、両下肢を交互に前方に出す歩行のような運動パターンが出現する。これを「自動歩行・自律歩行(automatic walking,出現時期0〜2ケ月)」というが、テーレンはautomatic walkingが3ケ月頃に消失するが、水中の中に乳児を支えておくと消失しておらず出現することを明らかにしたことで有名だ。
1990年代に、その論文を読んで驚いた記憶がある。つまり、反射は乳児の脊髄レベルの運動パターンとしては残っているわけだ。それは乳児の体重増加や重力下での環境適応と関係しているのだろう。また、テーレンは乳児のトレッドミル歩行の筋活動も研究している。それを誰かが脊髄の歩行パターンと関連づけ、トレッドミルを使った歩行のリハビリテーションへと導いたのかも知れない。そうした一連の客観的な科学研究から「ダイナミックシステム・アプローチ」が提案されて一世風靡した。
テーレンはアメリカの運動研究の最先端を疾走した学者の一人である。子どもの発達を科学的なテータに基づいて解析し、その個体発生としての運動発達を、多くの要因が入れ子になった複雑なプロセスと見なし、その複雑性を動的なシステムの変化として捉えようとした。また、上肢のリーチングについても数多くの研究を残している。
しかし、テーレンは単にバイオメカニカルな要因だけを重視しているわけではない。認知と行為の発生プロセスとメカニズムを解明しようとしており、ビアジェ、ヴィゴツキー、ヴァレラ、エーデルマン、マーク・ジョンソンなどにも言及し、「身体化された心」の「ダイナミックな相互作用」、「ダイナミックな認知」、「知識の社会的身体性」の側面から行為を解明しようとしている。
本書には科学的な発達研究の成果と深い考察が詰まっている。子どもの発達を解明するという壮大な夢を実現しようとした運動科学者の「人生の足跡」のようにも読める。
2.私はすでに死んでいる
アニル・アナンサスワーミーの『私はすでに死んでいる−ゆがんだ<自己>を生み出す脳,紀伊國屋書店,2018』はベストセラーになるだろう。脳の病理による自己の変化について興味深い知見が、科学的かつ物語のように書かれているからだ。誰でも興味を持つだろう。冒頭のコタール症候群の患者の言葉はショッキングだ。「私の脳は死んでいますが、精神は生きています」と言っている。生きているのに、死んでいる。自分は存在しないと主張する人々がいるらしい。認知症患者は「こんにちは、かしら。もうわからなくて」と言う。私のストーリーが消えていくのだ。その他、身体完全同一性障害、統合失調症、離人症、自閉症スペクトラム障害、自己像幻視、恍惚てんかんなども紹介されている。
アナンサスワーミーは科学ジャーナリストのようだがよく勉強している。たとえば、自閉症の説明について、フリストンの脳は「自由エネルギー」を最小化することで、恒常性を実現するという考え方を導入している。そして、フリストンの理論はアノーキンの学習モデルと似ている。自由エネルギーについては論文を検索してほしいが、要するにアノーキンも強調している身体性に根ざした「予測と結果」の一致(比較学習)が自閉症でも重要だということである。
また、アナンサスワーミーは「客体としての自己をつなぎとめる錨、それが身体だ。私たちの知覚するすべてのことは、身体が基準点になっている」、「自閉症では身体に関する情報が雑音だらけだ」と書いている。これはすべての疾患の「自己」についても言えることである。リハビリテーションの世界でも、そろそろ脳損傷における「自己の病理」が真剣に論議されなければならないだろう。統合失調症の世界では「身体所有感」や「運動主体感」のパラダイムを使った病態の再解釈が始まっている。
本書はさまざまな疾患の「脳のなかの自己」の病態を知ることのできる一冊である。読者は深淵な自己(self)の不思議さに出会える。
3.崩れながら立ち上がり続ける
『崩れながら立ち上がり続ける −個の変容の哲学,青土社,2018)』は東洋大学哲学科教授の稲垣諭先生の本である。先生はリハビリテーションの臨床に言及する哲学者であり、その論考と視線はセラピストにも向けられている。
本書は、「固体化宣言」から始まっている。帯に、「世界が今より善く、豊かに、美しくなるよう行為することは何より大切である。しかしそのはるか手前で、自らの存在に歯ぎしりし、苦しみ、どうしても前に進めなくなる個体がどのような世界にも存在してしまう。そうした個体には世界が変わるのを待つ余裕すらない。みずから変わってみるしかない。個体の変容をロマン主義の夢に封じ込めてはいけない理由がここにある」と記されている。
第T部の「哲学を臨床解剖する」で働き、個体、体験、意識、身体が考察され、第U部「臨床の経験を哲学する」で操作、ナラティブ、プロセス、技、臨床空間が考察されている。
「技−ある理学療法士の臨床から」では大越友博氏の整形外科疾患に対する認知神経リハビリテーションが取り上げられている。彼の臨床における「直感」の独自性は、今は亡き人見真理さんの子どもの臨床を想い出させる(天国で元気だろうか?)。それは経験の中で新たな発見を反復して、セラピストとしての自己を改変してゆく才能のことだ。そんな臨床に何があるかは探求に値する謎であると思う。個体化宣言は、患者だけでなく、セラピストにも不可欠だ。
本書はセラピストの臨床の本質の再考へと誘う一冊である。個が変容しない限り、経験に新しい意味が付与されない。
4.知識、技術、概念・・・、そして学会へ
最近、この3冊を読んで、リハビリテーションに新たな問いが投げかけられていると感じた。それが運動科学の研究者、脳科学のジャーナリスト、個人の思考のあり方を問う哲学者によってなされている。それぞれの立場から素晴らしい論考が展開されている。
たとえば、『発達へのダイナミックシステム・アプローチ』はテーマ(主題)が決まっている。その謎を解くために深く研究し、どこまで探求できるかが基本コンセプトとなっている。『私はすでに死んでいる』は最新の多様な知見を網羅し、その情報を他者にわかりやすく伝達できるかが基本コンセプトになっている。『崩れながら立ち上がり続ける』は著者の問題意識が反映されている。人間の何に意識の志向性を向けるか、その”まなざし”の転換を介した個の変容が基本コンセプトになっている。この3冊は著者と編集者が構築した本の「概念」が光っている。
つまり、重要なのは「概念(concept)」なのだ。何をするにも、生きるにも、セラピストが仕事をするにも、治療するにも、本や論文を書くにも、「知識」と「技術」がいる。しかし、「概念」が扱えなければならない。この概念を扱うこと、概念を心的操作することが、思考の反映であり、思考の改変の契機となる。だから、セラピストにも3つの「心的操作能力(ability of mental operation)」が必要だ。
1) 知識を心的操作する能力
2) 技術を心的操作する能力
3) 概念を心的操作する能力
・・・ここまで書いて、振り向くと、部屋の壁に貼った「学会ポスター」が見えた。夏が終わり、『第19回日本認知神経リハビリテーション学会(テーマ:病態を深化する)』が大阪で開催される。昭和が色濃く残る「天満」も近い。
参加者に求めたいのは、セラピストの「病態」についての「概念」を変えることだ。それは自らの脳の中で「in-form」する何かだ。自己の「内(in)に形成する(form)」することだ。 自己の内に形成する何かが変わらなければ、病態の解釈は変わらない。そして、「病態」のパラダイム転換によって新しい何かが誕生する。それが「深化」だろう。
5.ヘーゲルのバカンス(マグリット)
第19回学会ポスター
Perfettiは、「セラピストがマグリッドの”ヘーゲルのバカンス”を見ることで、患者の脳の病態を疑似体験できるはずだ」と述べている。だが、この絵を見ても、簡単には意味の理解に辿りつけない(学会のポスター参照のこと)。
病態は現象であり、病態には意味がある。その意味を再解釈することが「病態を深化する」ことだ。
だとすれば、セラピストは「病態」について「新しい概念」を持ち込む必要がある。そんな学会になることを期待している。
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