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1.学生
図1 Hugo Karl Liepmann (1863-1925)
近年、僕は一年生の前期の教養科目で「身体哲学」を教えている。その夏休みの宿題は、テキストの『リハビリテーション身体論(青土社, 2010)』をすべて読んだ上で、その中の人物(ぺルフェッティ、ペイトソン、メルロ=ポンティ、サルトル、ルリア、ヴィゴツキー、ジャクソン、リープマン、フッサール、ヴァレラ、ポパー)から、一人を選び、その人物の思想について自由に語ること」である(レポートの枚数は最低2枚、枚数の多いのは自由)。
先日、一人の学生が「リープマンの遺産(宮本省三:認知運動療法研究,Vol3,2003」というタイトルの文献がほしいと部屋にやって来たので、研究会誌を一冊謹呈したら喜んだ(学会誌:認知運動療法研究は、学会員であればホームページの会員図書館で自由に読める)。
そして、「なぜ、リープマンを選んだのか?」と質問すると、「他の人物も興味深い」が、「特に失行症というのは行為がバラバラになるらしく、興味深いから」と理由を答えた。「行為がバラバラ」とは「行為の解体のことだ」とは修正しなかった。その意味は読めばわかることだ。
それよりも「失行症(apraxia)」に興味をもったことが重要だ。「19歳で、失行症の謎についての思考を始める」ことがとても重要だ。その病態に驚く意識経験はかけがえのないものだ。
ペルフェッティによれば「リハビリテーションは”驚き”から始まる」。きっと、19歳の夏休みの記憶として残るだろう。そして、いつか自分の眼で成人の失行症や子どもの失行症を発見し、その困難な治療に取り組むだろう。
2.母親
運動統合障害(dyspraxia)は、『子どもの失行症』である。先日、ある母親は、子どもの行為を次のように説明してくれた。
子どもは歩くことは普通にできるけれど、外で階段を上る時、見ている所が違う。前方を見ず、階段に目を持ってゆくように、頭を下げて体幹を曲げて登ろうとする。そのためか全体状況を気にかけず、斜め方向に登って行くことが多い。
特に、神社のような岩でできた凸凹(でこぼこ)の表面の足場だと、どこに足を置いたらいいかわからない感じで、下肢への力の入れ方がおかしい。
また、特に「エスカレーター」みたいな、動く物体に乗り移ることがとても下手で困難。移動のタイミングが合わず、何回も行こうとするが固まって行けない。相手(物体)に自分の身体を合わせることでできない。そのため何度も同じエラーを繰り返す。
つまり、自分たちなら普通に自動的にできることが、普通にできない。何をしたらいいのかわからない感じ。意識が別の所へ行っている。
だから、食事の時にも失敗する。お皿がどこにあるか意識せずに、お皿に手を伸ばそうとしている感じがする。片手で何かを持とうとする時も肩や肘に力が入る。また、両手だとエラーが多い。何かをするために両手が一緒に動いていない・・・
母親の観察は的確である。失行症における「行為の解体」、すなわち「意識と運動の乖離」を見抜いている。この母親の言葉の中には、「子どもの失行症」を理解する上でのヒントが数多く含まれている。
3.子ども
子どもに階段を登らせてみた。階段をゆっくりなら登ることはできる。次に、後ろ向きに階段を下りるように口頭指示した。この瞬間に「行為の解体」が発現する。
失行症はすべての行為が解体するのではなく、ある条件、ある課題、ある難易度、ある規則を求められた時に、行為の解体が出現するのだ。子どもは体幹を大きく屈曲して腰を深く引き、目を階段に近づけ、全身に力を入れて、一歩一歩、ぎこちなく階段を下りようとする。上手く降りていないことは自覚しており、不安定で転倒しそうなために手すりを持とうとする。
どうしてこんなにも、階段の登りと降りの行為が違ってしまうのだろう。そのポイントは後方の空間認知にある。後ろ向きに階段を下りる時、その空間(場所)は目で見えない。したがって、脳は空間認知を視覚優位から体性感覚優位へと変更する必要性に直面する。だが、どこの身体部位を使って、「どこの空間(where)」の「何の空間(what)」を知覚探索しながら階段を降りたらいいのか、その知覚探索という運動を「どのように(how)」すればよいのかがわからない。
つまり、後方の階段を視覚イメージし、そのイメージ上の階段の下の段差(where)に対して、股関節と膝関節を伸展し、足部で階段の硬さ(what)を確認し、体幹の体重を移動しなければならない。だが、そうしたリアルタイムの知覚探索を伴う「運動プログラム(how)」の出現には、反対側の骨盤と下肢による片足で直立した立位姿勢制御が担保されていなければならない。
だが、既に、子どもは体幹を大きく屈曲して腰を深く引き、両側の股関節を屈曲した立位を取ってしまっている。
子どもは、階段は登れるが、後ろ向きに階段を上手く降りることができない自分自身に困惑している。そして、セラピストは、この困惑を発見し、それを何とかしたいと思う。
4.セラピスト
ここから、セラピストは、体幹(支持機能)、股関節(方向づけ機能・リーチング)、膝関節(距離調整機能・重心の上下移動)、足関節の機能(接触機能・地面の水平性、硬さ、体重移動)の問題点を慎重に思考しながら、訓練を構築してゆく必要がある。その慎重な思考がなければ、訓練はすぐにポイントを外してしまう。その結果、子どもの意識と運動の乖離は修正できなくなるだろう。
僕は、2人のセラピスト(平谷氏と田渕氏)と論議した上で、その子どもへの訓練として、立位での股関節の「方向」と「距離」の2つの訓練(課題=認知問題)を選択した。
まず、立位で両足を揃え、患側下肢の踵に対して左右に5段階の木片(目印)を置き(3番目が踵の後方)、セラピストが患側下肢の膝と足部を持って後方に他動運動で運び、患側下肢の踵の「方向」の差異を識別させる(股関節は内旋・伸展・外旋する)。
また、同様に、立位で両足を揃え、患側下肢の踵に対して後方に5段階の木片(目印)を置き(1番目が踵の位置)、セラピストが患側下肢の膝と足部を持って後方に他動運動で運び、立位時の患側下肢の踵の位置からの「距離」の差異を識別させる。
重要なのは、セラピストが患側下肢の膝と足部を持って後方に他動運動で運ぶ時、子どもがそれに協力する必要があることだ。立位で、重心(体重)を健側下肢にスムーズに少し移動し(それによってセラピストの他動運動がスムーズになる)、他動的な股関節の伸展時に骨盤が大きく後方回旋しないように制御する必要がある(骨盤回旋によって股関節の方向や距離が違ってくることに気づくことが重要)。
この訓練においては、この子どもの協力という前提条件を満たすことが重要である。なぜなら、課題遂行時に、子どもが健側下肢での片足立位の瞬間を制御することが、階段を降りる行為と関連しいているからだ。単に、階段を降りる時の知覚探索に股関節伸展が必要だと考えて訓練するだけでは不十分なのだ。それでは訓練と行為が関連づけられていない。
その後、同じ課題を自動運動でも試みた。子どもは股関節を随意的に伸展できるが、一人では方向と距離を識別できない。なぜなら、立位での健側下肢へのスムーズな体重移動と骨盤回旋をコントロールできないからである。子どもには、健側下肢と患側下肢への「同時注意」を求めているが、子どもの注意は患側下肢にのみ向けられている。これは体性感覚の世界における同時注意である。さらに、体性感覚の世界の注意には、触覚、圧覚、運動覚、重量覚といった感覚モダリティがある。そのどれに注意を向けるかの教示も必要である。
5.行為の規則性、そして「運動と言語」の解読と産出プロセス
セラピストの悩みはつづく。それは子どもへの問いかけではなく、自分自身の観察力、分析力、訓練の選択力、訓練の構想力、訓練の実技力への問いかけである。成人の失行症、子どもの失行症では、特にその能力が求められる。
学生も驚きをもって失行症の勉強を始めている。子どもの行為に対する母親の観察力は鋭い。一方、セラピストの場合、成人の失行症の「行為の解体(模倣や道具使用)」についての”驚きはよく聞くが、子どもの失行症の「行為の解体」についての”驚き”はあまり聞かない。それはセラピストの臨床での観察力不足ではないか?
失行症の観察では、「行為の難易度」を挙げても行為は解体するが、それは健常者でも同様である。それよりも、「行為の規則性」を求めた時に行為の解体が出現する。あるいは、「運動の文脈(コンテクスト)」に規則性を求めた時に行為の解体が出現する。その規則性には、運動の体性感覚制御、視覚制御、言語制御というヒエラルキーがある。
失行症は「運動の解読と産出プロセス」の異常であるが、特に、子どもの失行症を治療するには左半球における「言語の解読と産出プロセス」について理解する必要がある。
そして、最近出版されたペルフェッティ著(小池美納訳)の『失語症の認知神経リハビリテーション(協同医書)』を読んでほしい。この本を読めば「言語の解読と産出プロセス」が理解できる。つまり、脳は運動と言語を解読して産出する。したがって、脳の機能システムとしては、「運動と言語の解読と産出プロセス」の規則性は基本的に同様である。
おそらく、子どもの失行症(dyspraxia)は、基本的に左半球の運動の認知的制御不全だと思う。ただし、後方型(頭頂葉連合野の異種感覚情報変換の不全)と前方型(前頭葉連合野のワーキング・メモリー、言語の意味理解、運動プログラムの不全)のタイプがある。
失行症の治療にはPT、OT、STのすべてが取り組む必要がある(失語症の認知神経リハビリテーションには、STによる失行症の治療について解説を加えている)。
セラピストは失行症を発見しなければならない。失行症を発見しなければ失行症は存在しないということになってしまう。それによって失行症の理解に迫れる。患者や子どもの失行症の悩みに近づける。子どもの失行症を単なる「運動協調性障害(developmental coordination disorder,DCD)」 」と解釈してはならない。セラピストは失行症を慎重に分析し、その回復へと向かう訓練を構築しなければならない。
学生、母親、子ども、セラピスト・・・
それぞれが失行症と闘っている
失行症の謎は深い
セラピスト(PT・OT・ST)は、もっと「子どもの失行症」の治療に挑戦すべきだ!
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