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「鴨居玲(1928-1985)」という名の画家を知ったのは「坂崎乙郎(1928-1985)」の本であった。僕は坂崎乙郎の絵画批評に傾倒し、20冊近く本を集め、もう何年も読んでいる。イタリアでの認知神経リハビリテーション・マスターコースに行く時も、何度が持って行った記憶がある。その日のコースが終わり、夜、ワイワイと楽しく食事をして飲んだ後も、何ページか読んで眠りについていた。もう手遅れだが、出来ることなら、彼が生きていた頃の早稲田大学に入学して、その独断的な絵画史の講義を聞きたかったとも思う。夕方の90分の予定の授業が終わった時、4時間が経過して夜になっていたという逸話が残っている。それをずっと聞きつづけていた学生たちも素晴らしい。一度僕も真似してみたいものだ。狂った情熱がなければできない授業だ。本人は勝手に好きな話をしていただけだろう。そんな教師の存在が許される時代があったのだ。
もちろん、坂崎乙郎の絵画の知識は圧倒的だ。僕は絵画の見方について彼の本から多くのことを学んだ。若い頃、映画批評では蓮實光線を浴びて蓮實虫(蓮實重彦の影響を受けて作家主義的な映画を高く評価するシネフィルを指す)になったが、中年を過ぎて絵画批評では坂崎光線を浴びて坂崎虫になったということだ。それだけ僕の好きな絵画批評家だと言うことだ。どこがそんなに好きなのだろうか?
答えは簡単だ。彼の自分の好き嫌いで画家の価値を決める所が好きなのだ。絵画を批評すること(知識的、学問的、三人称的)と、ある人間が描いた絵画を批評すること(体験的、個人的、一人称的)は違う。絵画を描く人間を無視して作品を批評しても、そこには何もないことを教えてくれた。絵画を視るという行為において最も大切なのは、ある人間が描いた絵画と「私」が対話することなのだと教えてくれた。
鴨居玲[出を待つ(道化師)]1984
そして、そんな坂崎乙郎が好きな画家の一人が鴨居玲だ。確か、彼はこんな風な話を書いていた。記憶が曖昧で、僕の装飾的な作り話になってしまうが、意味は似ているはずだ。こんな例え話だ。
「人間の表情の一瞬の何か」を描こうとする少数の画家たちがいる。それを描くために自己のすべてを投企する少数の画家たちがいる。一方、「人間の美しい表情」を描こうとする多数の画家たちがいる。それを賞賛する多数の鑑賞者たちがいる。
多数の画家たちよ、多数の鑑賞者たちよ、君たちは自由にすればいいが、頼むからこの少数の画家たちの邪魔をしないでくれ。求めているものが違うのだ。少数の画家たちは「人間の表情の一瞬の何か」について深い個人的な問題を抱え込んでいるのだ。君たちとは別の世界を生きているのだ。生きる意味が違うのだ。だから、邪魔しないでほっといてやってくれ・・・。
坂崎乙郎にとって、少数の画家たちというのは、ゴッホであり、エゴン・シーレであり、鴨居玲であった。この3人を一つのカテゴリーで囲む所が、彼の真骨頂だ。なぜなら、このカテゴリーは絵画史にはない。どんな教科書にも記載されていない。だが、3人は「孤独」を生き、待っていたのが突然の「死」だった点で共通している。いつも自己と格闘し、絵画だけを残して人生を終えた、そんな稀有な少数の画家たちなのだ。
この少数の画家たちが探求した「人間の表情の一瞬の何か」とは、人間の「目に見えない、生きる痛み」のことだと僕は思う。彼らはその直感をキャンパスに叩きつけることで、その何かに意味を与えようと試みたのだ。
坂崎乙郎は鴨居玲が自殺した日の数か月後に死んだ。二人は友人だった。後追い自殺ではなかったかという噂がある。二人とも何かに絶望していたのかも知れない。
鴨居玲の作品は2015年に「東京ステーションギャラリー」で開催された回顧展(Rey Camoy Retrospective: on the 30th anniversary of his death)で観た。その案内には次のように記されている。
金沢で生まれた鴨居玲(1928-1985)は、新聞記者の父の転任に伴い、子どものころから転校を重ね、一所に留まらない性分から、南米・パリ・ローマ・スペインを渡り歩きました。各地で出会った社会の底辺に生きる人々をモティーフに作品を制作しますが、そのいずれもが自身を投影した自画像ともいわれます。
ときに、ユーモアに溢れ、芝居っ気たっぷりに、人を煙に巻くかと思えば、絶望感にとらわれ、酒に溺れ、自殺未遂を繰り返す。繊細でひたむきな破滅型の人生が、そのまま暗く沈んだ重厚な画面に、劇的な姿となって表わされています。そして、人の心の奥底に潜む暗部を注視し、己れの内なる孤独と苦悩を吐露しながら、心身を削るように描かれた作品は、見る者の胸に迫り、強く訴えかけてきます。
没後30年にあわせて開催する本展では、10代の自画像から遺作まで、57年の生涯で残された油彩の代表作をはじめ、素描、遺品など約100点を一堂に展示し、今もなお、多くの人を惹きつけてやまない鴨居玲の崇高な芸術世界をご紹介します。
東京駅の子宮の中に彼の世界があった。本当に素晴らしく、心が震えた。特に、スペインの市井の人々を描いた油絵の数々、ピエロのような自画像、ジャコメッティのタッチに似た人体デッサンがいい。彼の作品はネットで調べてみてほしい。暗い絵が多いが、彼は孤独のまま自由奔放に生きた。彼の作品群は一つの宇宙のようだ。
最近、僕は彼のデッサンを2つ入手し(本物?)、家で眺めて対話している。没後30年が経過し、鴨居玲の作品は異常に価格が高騰している。おそらく、油絵だと数千万円、代表作はオークションに出ないが、もし出れば数億円するかも知れない。一部に熱狂的なファンがいる。鴨居玲の油絵はとても買えないが、坂崎乙郎の本なら古本屋で数百円で買える。
僕は、こうして鴨居玲と坂崎乙郎について書きながら、リハビリテーションを想う。そして、人間の「目に見えない、生きる痛み」を治療する少数のセラピストたちが、この世界のどこかに存在しているだろうと想像する。
誰もが、人間の「生きる痛み」が現実社会のさまざまな場所に存在していることは知っている。そんなことは言われなくてもわかっていると思うかも知れない。その痛みを少しでも楽にするのが政治であり、医療や福祉の仕事だと、多くの人々は考えているだろう。だが、その考えは違う。その考え方は多数の画家たちや、それを賞賛する多数の鑑賞者たちに似ている。そうではなく、ゴッホやシーレや鴨居玲が描こうとした人間の「生きる痛み」は「目に見えない」何かだ。芸術とは「目に見えないものを見えるようにする(クレー)」ものだ。
人間の「目に見えない、生きる痛み」を治療する少数のセラピストはどこにいるのだろうか。たとえば、文字の読み書きが苦手な子供たちがいる。Dyslexiaと呼ばれる発達障害児たちのことだ。先日、北九州の「子どもの発達・学習を支援するリハビリテーション研究所」を見学して、その多さに驚いた。それでは学校の勉強がわからなくなる。大きくなったら社会生活で困る。子供たちは「語」は知っているが、対話における「文(テキスト)」のテーマ(既知)とレーマ(未知)が解読できない。だから、相手の意図や情報伝達(コミュニケーション)の意味がわからない。身体は発達しているが、「マインド・リーディング」や「心の理論」が未発達で、ミラー・ニューロンが活性化できない。
そんな子供たちの未来はまだ「目に見えない」が、その未来の「生きる痛み」をセラピストが想像し、読み書きの視覚、聴覚、体性感覚の異種情報変換能力(頭頂葉連合野)をコツコツと発達させることが重要だと再認識した。ルリアは人間の高度に発達した「角回(area39)での異種感覚情報の同時合成」が、文の解読には不可欠だと強調している。文の解読ができなければ、適切な言語の産出も困難になる。前頭葉における行動の言語調節能力が低下したままで生きることになる。そして、久しぶりに高橋先生の治療を安藤先生と一緒に見学して、彼が「目に見えない、生きる痛み」を治療する少数のセラピストの一人であることを再認識した。つまり、「目に見えない、生きる痛み」の治療とは、子どもたちの「脳の中の文章」に意味を与えるリハビリテーションのことである。
鴨居玲と坂崎乙朗に魅せられて、僕は、セラピストは、リハビリテーションは、もっと人間の内面を見つめ、自らの心魂を鍛えるべきだと思った。君が、毎日、スマートフォンの画面を見つめ、笑っているようでは、この世界は終わる。知識や技術の前に、”まなざし”の意味を見つめ、”感性”を鍛えるべきだ。そして、二人のように、この世界に絶望すべきではない。
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