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メッセージNo.90 リハビリテーションと科学についての覚書

リープマン
Sirigu,2009

 リハビリテーションと科学について、昨年の春、東京での「認知神経リハビリテーション・スペシャルセミナー」の講演者として招聘したアンジェラ・シリグ先生と京都の観光中に少し話し合ったことを思い出した。脳は不思議で、そんなことは完全に忘却していたはずなのに、不意に記憶という過去は現在にやってくる。
 確か、僕は「リハビリテーションは応用科学だ」と拙い英語で言った。そして、シリグ先生の研究論文について質問した。有名な『人間の脳外科手術中に頭頂葉連合野の角回(area39)を電気刺激した時、実際には足は動いていないのだが、患者が”足を動かしたいと思った”と言った』と報告した研究論文(Michel Desmurget, Angela Sirigu et al: Movement Intention After Parietal Cortex Stimulation in Humans Science 324, 811 2009)についてである。本当だとすれば、「頭頂葉に意図(intention)がある」ということになる。

 僕は「この研究は、科学なのか?」と尋ねた(バカな質問だ)。先生は「そうだ」と言って笑った。その優しい笑顔には「あなたの質問の意味がわからない」という感情が含まれていると感じたので、患者の意識経験の言語については何も語らず、質問はそれで終わった。もちろん、彼女の研究は科学的な事実を報告しているのであろう。
 しかし、僕はまるで現代のペンフィールドのような、この実験の知見が今でも本当なのかと思う。彼女を疑っているわけではないが、角回への電気刺激が、これほど明瞭な意図を発生させ、それを患者が言語化することが不思議でならない。もしそうなら、将来、前頭葉連合野を電気刺激したら思考を患者が自動的に語る可能性がある。


Graziano,2002

 確かに、運動野への磁気刺激では四肢に筋収縮が出現するが、それについても疑問がある。その四肢の筋収縮が目的ある行為だと言われると信じられない。これについては2002年のグラツィアーノのサルの研究(Graziano MSA, Taylor CSR, and Moore T : Complex movements evoked by microstimulation of precentral cortex. Neuron 34,841-851,2002)があり、「運動野には自己中心座標系に基づいて食物を手で掴んだり口へと運ぶ「目的ある行為のレパートリー」の基本型が再現(representation)されていると報告されている。しかし、これも信じられない。運動野には行為を奏でる「大脳皮質のピアノ」があるが、それは「ピアノの鍵盤」であって、行為のプログラムは運動野にはないと思うからだ。あるいは、運動野のニューロンには運動の空間性、時間性、強度はあっても、それは目的ある行為でないだろうと考えるからだ。

 さらに、先日、伊藤正男先生の名著「脳の設計図(中央公論者,1980)」を読み返していて、ペンフィールドのブローカ野への電気刺激の知見が引用されていた。それにはこう書いている。

 ブローカの中枢にあたるところを刺激すると、舌がひとりでに動いたり、唇が内にまくれ込んだりする。もっと前方を刺激すると、足の絵を見ても、「何か靴のなかへ入れるものだ」としか言えず、刺激をやめるとすぐ「足」と答える。

 これは「失語症」ではなく、まるで「失行症」ではないかと思った。実際、靴に手を入れようとする失行症患者がいたからだ。その患者は失語症ではなかった。あるいは、側頭極が損傷された意味性認知症患者は、日常物品の単語が言えない。最近、この症例も病院で症例検討したが、普通に会話はできるのに、物品の名称が言えないことが不思議だ。ソシュールの「シニフィアン(意味するもの)」と「シニフィエ(意味されるもの)」のシニフィアンだけが脳から消えている。

 いずれにせよ、脳への電気刺激による「意識経験の言語」は、まだ謎に満ちている。

 ここで話をシリグ先生への質問にもどすと、僕は「リハビリテーションは応用科学だ」と言ったのだが、脳に電気刺激して患者の意識経験としての言語を引き出すことが「科学」なら、片麻痺患者に「自分の足をどう感じますか?」とセラピストが聞いて、患者が「足はコンニャクのようだ」と答えることは、科学ではないのか? という疑問があったのだ。「科学者の電気刺激が科学で、セラピストの言語での問いかけは科学ではない」という考え方はおかしいように思う。
 もちろん、リハビリテーションが応用科学であるのは、さまざまな科学的な知見に基づいて合理性のあるリハビリテーション治療を行うという意味である。だが、ここで問題にしている科学は、患者の分析や観察における科学性である。あるいは、患者の分析や観察は科学で、治療は応用科学なのだろうか? それもおかしいように思う。
 この質問がややこしいのは、研究の結果が「患者の言語による報告」だからだ。しかし、そこに未来への可能性が秘められているように思う。ヴァレラの言う「科学と経験のダンス」のことである。それは「神経現象学的アプローチ」への可能性である。ルリアの言う「ロマンチック・サイエンス」のことである。それは新しい「神経心理学的アプローチ」への可能性である。認知神経リハビリテーションの臨床では科学と意識経験の両方が必要だ。

 患者の言語を非科学的だと無視してはならない。たとえば、片麻痺患者たちは、麻痺した手について、次のようなメタファーを語っている(宮本省三:片麻痺,協同医書,2015)。

 ・セメントのような手
 ・ギブスをはめられたような手  
 ・紙に包まれたような手
 ・包帯を巻かれたような手
 ・混乱した手
 ・バラバラに捻れたような手
 ・鎖につながれたような重い手
 ・死んだような手
 ・ネコが乗っている手

 セラピストは、こうした患者の意識経験を理解し、その意識変容を目指すリハビリテーション治療を考えてゆく必要がある。そうした「認知を生きる」プロジェクトはまだ続ける必要がある。

 そして、科学を勉強する者は、次のエピソードを知っておくべきだろう。科学者はお化けや霊を信じないが、評論家の小林秀雄はベルクソン論「感想」で、終戦の翌年に死んだ母親について、次のように書いている(適菜収:小林秀雄の警告 近代はなぜ暴走したのか? 講談社+α新書より)。

 母が死んだ。母の死は、非常に私の心にこたえた。それに比べると、戦争という大事件は、言わば、私の肉体を右往左往させただけで、私の精神を少しも動かさなかった様に思う。母が死んだ数日後の或る日、妙な経験をした。仏に上げる蠟燭を切らしたのに気附き、買いに出かけた。私の家は、扇ヶ谷の奥にあって、家の前の道に添うて小川が流れていた。もう夕暮であった。門を出ると、行手に蛍が一匹飛んでいるのを見た。この辺りには、毎年蛍をよく見掛けるのだが、その年は初めて見る蛍だった。今まで見た事もない様な大ぶりのもので、見事に光っていた。おっかさんは、今は蛍になっている、と私はふと思った。蛍の飛ぶ後を歩きながら、私は、もうその考えから逃れる事が出来なかった。−ベルクソン論「感想」より

 科学者は「おっかさんは、今は蛍になっている」という言葉を合理性がないと考え決して信じないだろう。それは単なる感傷だとするだろう。しかし、その感傷は小林秀雄の脳のニューロン活動が生み出した「心的活動」としての事実なのである。

 最後に、「行為間比較」についても触れておこう。患者の脳には「行為の記憶」が残っている。この事実が行為間比較の出発点である。行為の記憶は非科学的なものだろうか? その行為の記憶の意識経験を患者は語ることができる。あるいは、行為の記憶の中には片手動作や両手動作もある。食事行為、洗顔行為、着衣行為、歩行という行為などが、無数に残っている。

 サントルソ認知神経リハビリテーションセンターのリツェロ先生とゼルニッヒ先生を招聘して、2018年11月30日〜12月1日に「認知神経リハビリテーション・スペシャル・コース」、12月2日〜3日に「認知神経リハビリテーション・アドバンスコース」が東京で開催される。

 近年、脳科学も記憶の研究に取り組み始めている。しかし、まだ行為の記憶はまったく科学的に解明されていない。したがって、「非科学的な行為の記憶」が「科学的な行為の記憶の使われ方」へと変わるのはまだ困難である。だから、そこでは「主観的な行為の記憶」が「客観的な行為の記憶の使われ方」へと変わるだろう。

 リハビリテーションが応用科学になるためには、「患者の意識経験を含めて」、あるいは「患者の行為の記憶を含めて」という注釈がつく。その治療上の価値と意味を理解しない限り、リハビリテーションを科学的な治療だと標榜したり、単に科学的知見を治療に上塗りしたり、科学が上でリハビリテーションが下だと解釈したり、客観的なエビデンスが最も重要だといった言説が蔓延する。
 また、科学の進歩がリハビリテーション治療を変えてくれるというのは幻想に過ぎない。どのように科学の知見を治療に応用するかがリハビリテーションにおいては決定的な価値と意味をもつ。この点は認知神経リハビリテーションと科学の関係においても危惧しておく必要がある。
 リハビリテーションが科学であるなら、もうとっくの昔に運動麻痺は完全回復し、患者は皆んな社会復帰して幸福に自立して暮らしているはずである。・・・そうでないが故に、セラピストは休日を勉強(セミナーやコース)に費やすのである。

 ペルフェッティ先生に「ヘーゲルを読め」と言われたことがある。
 ヘーゲルは、もう200年も前に、「意識の中に主観も客観もある」と言っている。

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