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メッセージNo.111 純粋経験

色を見、音を聞く刹那、未だ主もなく客もない.
−西田幾多郎

 人間は行為する。西田哲学と呼ばれる京都学派の西田幾多郎は、『善の研究』で「純粋経験(pure experience)」という不思議な言葉を残している。
 まず、「善」とは人間の行為のことである。森羅万象の世界において、どのような行為が「善」であるかを知ることは難しい。「世のため人のために行為せよ」という言葉が想起される。だから、『善の研究』というタイトルから「どのように行為して生きるか」を問うていると思うかも知れない。しかし、そんな先入観や期待を裏切るかのように、西田は行為における意識の本質を問う。行為とは見ること、聞くこと、動くことのすべてである。行為とはポイエーシス(制作)である。行為とは経験である。そして、意識が変われば行為が変わる。あるいは、意識が変われば行為の意味が変わる。そうした行為と意識の関係の深淵に向かうことを、西田は「研究」と呼んでいる。
 一方、「純粋経験」とは何か。純粋経験とは「反省を含まず主観と客観が区別される以前の直接経験」である。時に「純粋意識」と呼ばれることもある。これは意識の「現象一元論」を意味するが、西田は次のように簡素に説明している。

 色を見、音を聞く刹那、未だ主もなく客もない.

 刹那とは「一瞬(時間の最小単位)」のことである。主と客とは「主観(認識する自己)」と「客観(認識される対象)」のことである。この言葉は『善の研究』で次のように説明されている。

 意識するというのは事実其儘(そのまま)に知るの意である。全く自己の細工を棄てて,事実に従うて知るのである。純粋というのは,普通に意識といっている者もその実は何らかの思想を交えているから,毫(ごうも、少しも)も思慮分別を加えない,真に意識其儘の状態をいうのである。たとえば,色を見,音を聞く刹那,未だこれが外物の作用であるとか,我がこれを感じているとかいうような考のないのみならず,この色,この音は何であるという判断すら加わらない前をいうのである。それで純粋意識は直接意識と同一である。自己の意識状態を直下に意識した時,未だ主もなく客もない,知識とその対象とが全く合一している。これが意識の最醇(さいしゅん)なる者である。

 西田によれば、純粋経験は「あるがままの直接経験の事実、すべての始発点になる根源的知識」である。そして、何かを知る時、まず自己、主体、主観)というものがあって、それが物体、客体、客観と出会うことで知識が成立するのではない。自己も物体も思考による反省の結果生まれてくる。つまり、経験から主体も客体も誕生する。主観も客観も経験の産物である。つまり、「個人があって経験があるのではなく、経験があって個人がある」とする。純粋経験とは「主客合一」状態の意識経験だと言えるだろう。西田は、こんな風にも述べている。

 我々は少しの思想も交えず,主客未分の状態に注意を転じて行くことができる。たとえば、一生懸命に断岸を攀ずる(よじ登る)場合の如き,音楽家が熟練した曲を奏する時の如き,全く知覚の連続といってよい。また動物の本能的動作にも必ずかくの如き精神状態が伴うているのであろう。これらの精神現象においては,知覚が厳密なる統一と連絡とを保ち,意識が一より他に転ずるも,注意は始終物に向けられ,前の作用が自ら後者を惹起しその間に思惟を入るべき少しの亀裂もない。これを瞬間的知覚と比較するに,注意の推移,時間の長短こそあれ,その直接にして主客合一の点においては少しの差別もないのである。

 ところが、ここに思慮分別が加わるとき,つまり我がこれを見,聞いているとか,あるいはこの色は青だ,この音は鐘の音だとかいった思惟の働きが介入するとき,純粋意識は壊れる。そこでは,見る色,聞く音というただ一つの事実は解体し,見る我,聞く我と見られる色,聞かれる音の主客二元に分解し,さらに見られる色,聞かれる音もまた,この色は青だ,この音は鐘の音だというふうに,主語と述語の関係性に分解してしまうのである。

(西田幾多郎:善の研究岩波文庫,1911初版、1979)

 これを日常の経験に置き換えてみよう。たとえば、映画を観たり、音楽を聴いている時、意識が映像や旋律に集中していることがある。この時、意識は「見ること」、「聴くこと」に集中しており、そこには主もなく客もない。また、一生懸命に断岸絶壁をよじ登る人間を想像してみよう。それは「よじ登る」という行為である。失敗すれば崖下に転落して死んでしまうかも知れない。だから、一生懸命に上方を見つめ、手の届く岩肌に出っ張った場所を探し、手をリーチングして手指を岩肌に引っ掛け、手足に力を込めて、身体を引き上げてゆく。この時、人間は「よじ登る」という行為しているのだが、そこには主もなく客もない。まさに「手が物に触れる刹那、未だ主もなき客もない」である。ただひたすら、意識は「よじる登ること」に集中している。
 見ること、聞くこと、動くこともすべて行為である。それは行為のポイエーシス(制作)である。その行為の経験に主もなく客もないのが純粋経験である。これは子どもの行為の経験の説明としても妥当性がある。乳児が哺乳瓶を両手で持ってミルクを飲んでいる時、意識の中に自己も哺乳瓶もない。あるいは、子どもがゲームに熱中している時、大人がさまざまな行為を集中して遂行しでしている時、その瞬間に「我あり」という意識はない。
 だとすれば、「我(主体としての自己)」は思考的な「反省」によって生まれる何かである。この「我あり」について西田の弟子の西谷啓治は次のように言っている。

 「われ在り」ということの究極の根底は底なきものである。我々の生の根源には脚をつけるべき何ものも無いというところがある。むしろ立脚すべき何ものもないところに立脚する故に、生も生なのである。

西田幾多郎
西田幾多郎(1870−1945)

 これは人間が「無」に立脚した多様な経験を生きることによって「自覚」が生じ、不断の自己が実存することを示している。自己があって経験するのではなく、経験があって自己があるということだ。
 しかしながら、ここでは行為における意識の「現象一元論」に着目したい。西田の純粋経験は行為の意識を考える上で重要な問題を提起していると思えるからだ。それは「行為への意識の没入」という謎である。行為そのものに意識が没入する時、そこには「行為という現象」だけが存在する。それは動物の行為を見る時に感じることである。動物の世界は行為だけが存在するように見える。人間も動物である。だから行為だけの世界があるのだろうか。
 我々は、純粋経験を決して「無意識的な行為」、すなわち「運動学習によって獲得した自動的な運動スキルの発現」と解釈してはならない。純粋経験は運動スキルのレベルに関係なく、どのような行為においても、日常のすべての行為において含まれる自然な意識状態を指している。行為以外に意識の志向性が向かない「意識の没入状態」のことなのだ。
 したがって、それは「我を忘れている」が無意識的な状態ではない。ただ、その行為の瞬間に、意識は自己を消している。
 それは「行為する刹那、未だ主もなく客もない」という意味である。つまり、行為は「純粋経験」である。すなわち、行為は「主客合一」状態での意識経験なのである。


 2001年、サントルソ認知神経リハビリテーションセンターが誕生した時、日伊リハビリテーション交流会が開催された。日本側からは宮本、沖田、塚本、内田、山田、小池、中村が参加した。スキオに到着したが、僕のミスでホテルの予約確認をしていなかったので泊まれず、夜中に他のホテルを探すことになってしまい、皆に相当怒られた。しかし、その結果、郊外の美味しいレストランで食事ができた。
 サントルソで第1回マスターコースが開催される前年のことで、サントルソの市庁舎前の小さなホールで50人位の参加者で日伊リハビリテーション交流会は開催された。その時、ペルフェッティ先生から日本側も何か講義するように言われていた。短い時間(20分)だが、小池さんの通訳で僕は西田の純粋経験について話した。何と剣道の場面をビデオで見せて、二人の剣士が微妙な間合いの取り合いつつ、一瞬の内に竹刀で打ち合う映像を流した。そして、こうした無意識的に行為に集中している意識の状態が純粋経験だと説明した。また、右手が左手に触れて運動と触覚を同時に感じている状態の身体意識も純粋経験だと説明した。弟子の西谷啓二の解釈にも触れた。そして、認知運動療法を受ける患者の意識経験に関係していると思うと主張した。ペルフェッティ先生からは無視されて何もコメントもなかったが、イタリア人のセラピストが一人「麻痺した手で自己の身体に触れる訓練を考えているのか?」と質問してくれた。今思い返すと恥ずかしい。かなり無知な者が背伸びをした無謀な講義だ。
 だが、その頃から何故か西田の純粋経験について考え続けている。何か行為をしていてフッと気づくと純粋経験という言葉が脳裏に浮かぶことがある。だから、時々、黒い丸メガネをかけて「善の研究」を読む。西田によれば、行為は純粋経験から「制作(ポイエーシス)」される。いわゆる「行為的直観」の獲得が大切である。認知神経リハビリテーションにおける認知過程(知覚、注意、記憶、判断、言語)の活性化は、純粋経験の反省(内省)のようにも思える。しかし、この反省は結果に対する反省ではなく、行為の意図(予測イメージ)と結果の比較照合である。日常の行為は無意識的な純粋経験のように思われるが、行為には意図(知覚仮説、運動イメージ、行為の記憶)が先行している。


 近年、哲学者で「意識の志向性」を研究しているジョン・サールは意図を「事前(先行)意図(prior intention)」➡「行為内意図(intention in action)」➡「身体運動(body movement)」の順で説明している。矢印は因果作用に相当する。たとえば、「私は腕を上げようと意図する」➡「私は腕を上げている」➡「腕の運動」ということである。この矢印を逆にして、身体運動➡行為内意図➡事前意図と因果作用を辿れば他者の意図が推察できる。
 また、ここから失行症の模倣障害や発達障害児の心の理論について考えることができる。彼らは身体運動➡行為内意図➡事前意図の因果作用を辿れないために、他者の行為の意図が推察できないのかも知れない。自己と他者の社会的コミュニケーションや今度の学会のWe mode cognitionの論議でも、こうした意図をめぐる双方向性の因果作用の離断症候群という観点から、つまり「どこの時点での因果作用が解釈できないのか」という観点から、病態理解の仮説を構築できるかも知れない。彼らは意図が理解できないのではなく、意図と身体運動(たとえば道具使用)の因果作用の結びつけ(解釈)にエラーが発生している可能性が高い。行為や他者がわからないのではなく、行為の意図と身体運動の因果作用がわからないのだ。
 言語学者のヴィトゲンシュタインは「私が腕を上げるという事実から私の腕が上がるという事実を差し引けば、何が残るだろうか?」と問うている。
 しかし、「@事前意図」は多様である。上方の物体を取りたくて腕を上げることもあれば、誰かに挨拶したくて腕を上げることもあれば、授業で質問したくて腕を上げることもある。つまり、事前意図には、「何のために」という「行為の目的」が含まれている。
 一方、「A行為内意図」は自己言及的である。その特徴は「あなたは今何をしようとしているのか」と問われると言語で解答することができる点である。それは「事前意図のために○○している」という表現になる。たとえば、「(誰かに挨拶するために)腕を上げている」、「(トイレに行くために(立ち上がっている)」、「(グラスを掴むために)表面素材を感じている」・・・という具合である。ここには、さまざまな三人称的、一人称的な解答の仕方が潜んでいる。
 「B身体運動」は腕を曲げる、手を伸ばす、体幹を傾ける、足を曲げるといった要素的な関節運動のことである。ここでは運動は知覚の連続である。
 一体、何を言いたいのか。西田の純粋経験は、サールの「行為内意図」の連続だということだ。それは「あなたは今何をしようとしているのか」と問われると、言語で解答することができる。この論議は認知神経リハビリテーションの行為間比較の展開にもヒントを与えるように思う。
 繰り返すが、重要なのは行為内意図が自己言及的であることだ。行為中に「あなたは今何をしようとしているのか」と問われると言語で解答できるということだ。たとえ「断崖絶壁をよじ登る」という行為が純粋経験であっても、質問すれば何らかの解答を導くことができる。それは行為内意図の内容に関わっている。臨床で患者に問いかけてほしい。行為内意図の意識経験についての患者の言葉はまだ十分に分析されていない。それは人間の行為と意識の関係の深淵に向かうことであり、認知神経リハビリテーションの新しい挑戦になる可能性を秘めている。
 おそらく、動物も純粋経験している。しかし、それは「事前意図(欲求)」➡「身体運動」の反復である。人間には二つの間に「行為内意図」がある。この行為内意図の多様さが、人間の「身体化された心(embodied mind)」だと思う。あるいは、行為内意図こそが「身体化された精神」なのである。つまり、いわゆる精神(欲求や空想や幻想も含めた事前意図の心的階層性)➡身体化された精神(暗黙的な行為内意図)➡身体(具体的な身体運動)の流れである。

 無意識的な純粋経験にも行為内意図がある。
 それは「行為のなかの意図(intention in action)」と呼ばれる。

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