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メッセージNo.112 “Susanna” di Adriano Celentano
−行為間比較(CTA)とWe-mode cognitionのために

『INTERAMENTE』表紙

 先日、友人のヴァレリオ(Valerio Sarmati)が『INTERAMENTE』というタイトルの本をプレゼントしてくれた。

 ヴァレリオとは、2004年の一年間、サントルソ認知神経リハビリテーションで一緒に研修した。ミケーレ(Michele)という失調症の少年を二人で担当した。彼から、僕はさまざまなことを教わった。彼はサントルソで三年間研修したので、池田耕治、高橋昭彦、鶴埜益巳の3名とも一緒に勉強したはずだ。それから、彼はロックが好きだった。
 そんな彼が、認知神経リハビリテーションの臨床についての本を書いた。ピサ大学哲学科のイヤコノ教授が序文を寄せている。サントルソでのPerfetti先生との対話、認知運動療法の核(触覚、注意、運動イメージ・・・)、ミケーレの身体イメージのこと、その後のローマでの臨床のこと、片麻痺患者の回復について、患者の言葉、中間世界、訓練・・・。この本には、臨床家である彼のこれまでの経験と思考が詰め込まれているのだろう。とても嬉しい。いつか、この本を日本語で紹介したいと思う。
 一度、来日したこともある。高知医療学院に招待して、学生たちに集中講義した。その夜、”ひろめ市場”で鰹のタタキを食べ、日本酒を飲み、皆で一緒に騒いだ。
 今はローマではなくシチリアのマルタ島の田舎で暮らしているが、近年、インターネットを使って認知神経リハビリテーションを広めている。その文章や映像は時々見ていた。
 その中に、「Dopo un Ictus: Esercizi per il cerevello o esercizi per il corpo?」と題した文章と映像があるので紹介したい。


アドリアーノ・チェレンターノの写真

 ある時、私は患者さんに尋ねた。

T(セラピスト):「聞いて下さい。私たちは手首の動きを取り戻すためにこの訓練をしているのですが、あなたにとって訓練は本当に意味があるのでしょうか? また、この手首の上下運動はあなたの過去の経験の中で特に何かを思い出させるのではないでしょうか?」

 突然、彼は感動して泣き出してしまった。私はそれを予期していなかったし、理解できなかった。彼の時間を尊重し、しばらくしてから何があったのかを尋ねると、彼はこう答えた。

P(患者):「子供の頃、父と車に乗って海に行ったとき、父が運転していて、僕は窓から手を出して、手首を運動しながら、空気に乗って遊んでいたのを思い出しました。」

 彼はこの思い出を語った瞬間、目を輝かせて感動していた。彼だけではなく、私もその記憶の強度を感じた。この記憶を研究で使用することを許可してもらうために、私がメモした彼の言葉をもう一度読み上げると、彼はこう言った。

P:「この記憶が僕の感情や情動を刺激したという事実を指摘すべきだと思います。”タイムマシン”のように、僕をその瞬間に連れて行ってくれました。そして、僕は泣き出してしまった。僕はそこにいた。僕は信じられなかった。その感情が緊張を解きほぐしてくれたのです。」しばらくの間、彼はそうした。

 この時点で、私は彼にとっての価値をそのジェスチャーに見出した。直前には何の文脈にも関係なく、彼の脳内では経験とうまく結びついていなかったジェスチャーだった。私はその記憶を強化するために、その経験のすべての感覚的な詳細を尋ねることにした。

T:「その美しい瞬間について詳しく教えてください。何かイメージを覚えていますか?車の窓から何が見えましたか?"

P:「太陽で黄色くなった野原があった、夏だった」

T:「その時の音を覚えていますか? カーラジオは流れていましたか?」

 ここで、その感情が憂いを帯びた微笑みに変わった。

P:「はい、アドリアーノ・チェレンターノの”スザンナ”を聴いて、一緒に歌いました」

T:「とてもいいですね。聞いてください。車の窓が開いていたので、匂いも覚えていると思いますよ」

P:「もちろん、夏の畑の匂いと、近づいてくる海の匂いが混ざっているのは、いつも同じでした」

 この時点で、私たちはその瞬間に関連した感情や知覚のパノラマの多くを再構築した。

 手首を曲げたり伸ばしたりする単純なジェスチャー(行為)は、彼の心や脳の中では特定の「位置を持たない」状態だったが、彼の経験の中では生きており、彼の記憶の中で特権的な役割を持ち、そのために他の多くの感覚や経験の側面とうまく統合されていた。
 これだけで訓練を充実させることができる。冷静に考えてみると、チェレンターノの曲を流して、その瞬間の意図に寄り添ってもらうこともできたのだが、訓練ではその瞬間を追体験してもらうことにした。
 その特徴は、家族と一緒に海辺で一日を過ごそうとする人の心の状態、近づいてくる海と混ざった畑の匂い、黄色く変色した色、窓の外の空気と手首の動き、そして、ラジオから流れるチェレンターノの曲である。
 その追体験によって、訓練における手首の動きがスムーズになり、時々、手首が上下左右に動いていることを理解できるようになった。この時点で手首の筋の柔軟性が増しただけでなく、空間における手の位置の知覚もより適切なものになった。

 ある意味ではヘルドの子猫の回転木馬の実験に似たことが起こった。ただ、彼が行為の主人公となり、意図的に感情や知覚の経験を駆使して行為を完成させたときには、彼自身が手首の運動に対して明らかに能動的な役割を果たしたことになる。
 手首の動きは機械的な観点からは大きな違いはない。その違いは彼の意識に関連するプロセスに関与する方法にあり、それが身体の物理的な側面(脈拍と筋緊張)に影響を与えている。
 有史以来、著名な学者たちが取り組んだにもかかわらず、身体と精神の結び目を解くことができなかったのは明らかだ。
 脳卒中後のリハビリテーション訓練は、単純な運動や筋の伸張、文脈のない筋力強化活動、特殊な手技などの訓練に限定されるものではなく、患者にとって可能な限り意味のある方法で、身体と精神の相互ユニットを関与させることができるものでなければならない。
 認知神経リハビリテーションを行うとき、患者に知覚や注意の問題があっても、脳卒中を発症する前と知的に異なるわけではないことを認識しておくべきである。

彼の個人的な経験を皆に伝える許可を得たので、感謝の気持ちを込めて、この曲を彼に捧げます。

アドリアーノ・チェレンターノの写真
アドリアーノ・チェレンターノの”スザンナ


 このヴァレリオの文章や映像から、「行為間比較(confront tra azioni,CTA)」に取り組んでいる彼の臨床が想像できる。父親が運転する車の窓から手を出して、手首を動かしながら空気に乗って遊んでいる記憶(多感覚)と、訓練における手首の背屈や掌屈の空間問題(運動覚)を、比較し、関係づけようとしているのだ。この記憶は彼(患者)の一人称の世界だ。チェレンターノの”スザンナ”は彼の父の時代である1984年のヒット曲だ。チェレンターノはロック歌手で日本で言うと沢田研二のような存在だ。おそらく、もう彼の父は亡くなっているのだろう。だから、息子である彼のエモーションが激しく動いたのだろう。記憶は不思議で、何でもないちょっとしたことが、大切な人と時間を共有した、ある一瞬の行為の思い出として残っている。そんなプライベートな記憶の中に、片麻痺になって失ってしまった手首の運動の意味を発見することが可能なのだ。こうした行為の記憶を使った訓練が、Luriaの「ロマンチック サイエンス」を継承する認知神経リハビリテーションの現在だ。

 僕とヴァレーリオがサントルソで一緒に研修したのは2004年のことだ。その経験の中にもさまざまな一瞬の記憶がある。ある日、スキオの街を歩いていると、CD店の入り口にチェレンターノの広告ポスターを見つけた。その年、「C'è sempre un motivo」がヒットしていた。いい曲だった。だから、帰国後、何度か、日本認知神経リハビリテーション学会の最後に、イメージ映像とともに「いつだって理由がある」を流した。僕は自分のサントルソの記憶と学会を比較し、関係づけようとしていたのだ。
 何を言いたいのか。「行為間比較(CTA)」は、比較し、関係づけることで、「新しい認知をつくろうとしている」ことを強調したいのだ。患者の機能回復には新しい認知が必要だ。行為の記憶と訓練を比較し、関係づけることで、新しい認知(意味)が患者の脳の中で誕生する。
 そして、「行為間比較」の臨床導入はそれほど難しいわけではない。ヴァレリオが試みているようにやればいいだけだ。難しいのは、訓練と比較するための、情動的かつ多感覚的なエピソード記憶を上手く引き出せるかどうかだ。そのためには、セラピストが患者の記憶を共感的に追体験できるかどうかも重要な鍵になる。
 「患者と語る」とき、ヴァレリオが彼の記憶を「美しい瞬間」と呼んでいることを見逃してはならない。その美しさは単なる風景の美しさではない。父と子供の旅の美しさのことだ。車に乗って二人で旅している時の何気ない一瞬の刹那のような美しさのことだ。その自己と他者の存在の想起がエモーションを喚起するのだ。そして、これこそが「We-mode cognition(今年の我々の学会テーマ)」である。

 結論づけると、「行為間比較(CTA)」には患者とセラピストの「We-mode cognition」が必要だ。「We-mode cognition」は機能回復の限界を乗り越える鍵である(現在のコロナ禍を乗り越える鍵でもあると思う)。

 だから、このヴァレリオの文章に記された患者の記憶を読みながら、チェレンターノの”スザンナ”を聞いてみてほしい。そして、ぜひ歌詞を訳してみてほしい。そうすることで、「父親が運転する車の窓から、彼が手を出して、手首を動かしながら空気に乗って遊んでいる記憶」を、その瞬間の彼の「脳の気持ち」を、僕らも少し追体験することができる。

“Susanna” di Adriano Celentano

Sette giorni a Portofino
più di un mese a Saint Tropez
poi m'hai detto "cocorito"
"non mi compri col patè..."
e sei scappata a Malibù
con un grossista di bijou!
Susanna, Susanna, Susanna, Susanna
mon amour.
E io, turista ticinese
tu regina di Pigalle
indossavi un pechinese
ed un triangolo di strass
ti ho detto "vieni via con me",
tu mi hai detto "sì"
io ti ho detto "ripasserò"
"ma no! monsieur, tu ne preoccupe pas, .ma vai!"
Susanna, Susanna, Susanna, Susanna
mon amour
Susanna, Susanna, Susanna, Susanna
mon amour
E ora sono sulle spese
in balia degli usurai
sovvenziono quattro streghe
per poi sapere dove stai .
e tuo marito sta
qui da me
che mangia e dorme come un re
Susanna, Susanna, Susanna, Susanna
dove sei
oh... oh... oh... oh...!
Son tre mesi che ti aspetto
in quel solito bistrot
ho firmato un metro quadro
di cambiali agli usurai
ma più niente so di te
forse un giorno ritornerai...!
Susanna, Susanna, Susanna, Susanna
mon amour
Susanna, Susanna, Susanna, Susanna
mon amour
Susanna, Susanna, Susanna, Susanna
mon amour
io ti aspetto...
mon amour...!

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