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突然だが、「個人の内的な幸福」について、リハビリテーション医療の視点から考えてみたい。
リハビリテーションでは運動麻痺の回復、日常生活動作の自立、社会参加、人生の質(QOL)などが考慮される。だが、「それは個人の内的な幸福なのか?」と、医師やセラピストに問いかけてみたい。
また、認知神経リハビリテーションの「行為間比較」においては、「行為の記憶」の想起が重要だが、それは「改善すべき行為」についての過去の行為の記憶でなければならない。だが、「それは個人の内的な幸福なのか?」と、認知神経リハビリテーションを実践するセラピストに問いかけてみたい。
一体、「個人の内的な幸福」とは何だろうか? それは「一人称の心に秘めた幸福」なので、本人に聞いてみないとわからない。ということは、リハビリテーションの臨床で本人に何も質問しないで、あるいは本人がそれを何も語っていないのに、セラピストが幸福を信じ込んだり、語ったり、推察しても意味はない。医療者側が良かれと思っても、本人にとっては別に幸福でないかも知れない。
イタリアのサントル認知神経リハビリテーションセンターで長期研修した時、ある女性の片麻痺患者から「ミヤモト、彼と一緒にレストランで食事をする時、テーブルの上に左手の手指を伸ばしたままテーブルの上に置けるようにしてほしい」と言われた。「ぎゅっと手指が曲がったままはいやだ」とも言った。彼とは婚約者のことだった。また、仕事用の机の上にパソコンを置いて右手で仕事をする時も、左手は手指を伸ばしたまま置いておきたい」とも言われた。そして、「ミヤモト、できるようにしてくれる?」と真っ直ぐな目で問われた。その時、僕は「できる」と答えた。
長い間、この彼女の言葉がずっと脳裏に残っている。7月1日(土)に開催する高知医療学院「一般公開講座」で『アランの幸福論とリハビリテーション』を企画した。まず、明治大学の合田正人先生による「アランの幸福論 −喜びは行動とともにある」の講演があり、その後に「個人の内的な幸福」をテーマに対談することになった。
リハビリテーション(セラピスト)の臨床では、患者のさまざまな「行為の回復」を目指すが、その行為が「個人の内的な幸福」とは違っていたら、一体、そのリハビリテーションは何のための、誰のためのリハビリテーションなのかわからなくなる。
確かに、一般的な意味ではさまざまな行為が回復すればよい。また、それには行為の難易度があることは十分わかっている。行為の回復が簡単でないことも知っている。しかし、そこに「個人の内的な幸福」という考え方を持ち込むと、その一般的な意味でのリハビリテーションにおける行為の回復の前提が崩れてしまうように思う。つまり、リハビリテーションの治療計画に大きな疑問を投げかけるように思う。
突然だが、「個人の内的な幸福」について考えてみたい。
これはかなり“ラディカル”な問題提起である。
*一般公開講座はZOOM配信されるので希望者は高知医療学院のホームページから申し込んで下さい。
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