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■いつもここにあるという感覚
William James(1842-1910)
19世紀末、心理学者のウィリアム・ジェームス(William James)は「心理学原理(1890)」で「いつもここにあるという感覚(1890)」があると言っている。この言葉は「身体意識」についてのもので、人間の「意識の流れ」における「身体の自己存在感」を意味している。そして、彼は次のように述べている。
個人的に経験される世界は自己の身体を中心として自らに出現してくる。その中で身体は、「身体が存在する場所が『ここ』であり、身体が行為する時が『今』であり、身体が触れるものが『これ』である」と論じられる通り、行為の軸となる。
ジェームスによれば、「行為の軸となるのは身体の自己存在感」である。それは身体の“ここ”という空間性、“今”という時間性、“これ”という“直示性”のことである。それらが「いつもここにあるという感覚」を生成している。
おそらく、「いつもここにあるという感覚」は「身体存在感」のことであり、行為の背後に潜む「身体的自己」に他ならない。しかし、「いつもここにあるという感覚」は、意識に浮上したり、無意識下に沈殿したりしている。
■手を探す必要がない
21世紀初頭、脳科学者のハガード(Haggard,2008)は「何かをメモしなければならない時、机の上のペンや紙を探すが、手を探す必要はない」と指摘している。
私が椅子に座っている状態で、机の上のペンに向かって手をリーチングする時、私はペンや紙がどこにあるかを瞬時に視覚探索している。ペンや紙は空間的に右斜め前方(約45度の方向、約30cmの距離)の位置にある。そして、私は身体周辺空間のペンや紙に向かって手のリーチングを開始する。
この手のリーチングを開始する瞬間、私は手がどこにあるかを視覚探索していない。それにもかかわらず手のリーチングが開始されている。私は手を視覚探索する必要はなかった。ということは、私は手の空間的な位置を事前に知っていたのだ。
私の手は、私から離れて存在していたわけではない。手はいつもここにあるので、私が探す必要などないということだ。それは私にとって自然なことである。
私が自然に行為する時、私の手足は常に存在している。手足はいつも私と共にあるので、私は手足を意識的に探す必要はない。「いつもここにあるという感覚」は意識の志向性(意識作用と意識内容)という視点からすると意識作用の主体であり、意識内容の客体ではないのかも知れない。「いつもここにあるという感覚」は暗黙知としての「即自」であり、明示知としての「対自」ではないのかも知れない。そこに「私の身体」の秘密が潜んでいるように思う。
■体性感覚麻痺、病態失認、幻肢
19世紀末のジェームスの「いつもここにあるという感覚」と21世紀初頭のハガードの「手を探す必要はない」という言葉は、どちらも「身体存在感」についてのものだ。だが、その謎は未だ解かれていない。
リハビリテーションの臨床には、こうした身体存在感に問題が発生した患者が大勢いる。たとえば、脳卒中後の片麻痺患者では、私の身体が「いつもここにあるという感覚」が消失することがある。それは運動麻痺と体性感覚麻痺が発生した手足に生じる。そのため片麻痺患者はいつも「手足を探す」必要がある。視覚探索すれば手足は見つけることができる。しかし、目が外部世界の何かを見ていると手足は存在しない。目を閉じると手足は消失してしまう。意識の中で手足は常に存在してはいない。だから、自然に手足を動かすことができない。自然に行為することはできない。そして、この症状は手足の「体性感覚麻痺(表在・深部感覚障害)」だとされている。
さらに、もっと重篤な症状も報告されている。左片麻痺の「病態失認」では、視覚的に手足が見えることには同意するが、その手足は自分の手足ではないと否認する。これは右半球損傷(頭頂葉損傷)に由来する高次脳機能障害だとされている。
一方、手足の切断患者では、既に手足が存在しないにもかかわらず、手足の「いつもここにあるという感覚」が残る。この症状は「幻肢」と呼ばれている。幻肢は視覚的には見えないが、目を閉じると強固に存在している。その失った手足には「幻肢痛」も発生する。
いつもここにある感覚は「手足の体性感覚」であると同時に、「手足の記憶」でもあるのだろう。それは無意識と意識の境界で漂っているようだ。いつもは潜在的な身体存在感だが、時に明示的な身体存在感にアクセスする。
■身体化された感覚
また、「いつもここにあるという感覚」は「身体空間」として存在している。だが、それは現在の身体感覚(オンラインの身体)なのか過去の身体感覚(オフラインの身体)なのかよくわからない。それは「いつも、今、ここにある」という時間と空間を伴った「身体化された感覚(sense of embodiment)」である。ジェームスは「世界は自己の身体を中心として自らに現れてくる」と言っている。
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