認知神経リハビリテーション学会

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メッセージNo.139 行為を比較し、関連づける
−すべての行為は、行為する主体の歴史の一部である−

[1]

 認知神経リハビリテーションにおける『行為間比較(CTA)』では、「行為の記憶(損傷前の行為)−訓練−現実の行為(損傷後の行為)」の間の「比較」と「関連づけ」が提案されている。これは「比較と関連づけが脳を改変する」という仮説である。
 脳には行為の記憶が眠っている。そして、「脳のなかの行為」は「物語自己(ナラティブ・セルフ)」でもある。ペルフェッティ(Perfetti)は「すべての行為は、行為する主体の歴史の一部である」と述べている。また、ヴァレラ(Varela)は「認知とは、生きて体験され、身体化され、具体化され、文脈内に置かれたものでなくてはならない」と述べている。
 行為間比較は、人生の物語としての「記憶のなかの行為」を想起し、その「経験の言語」を訓練や現実の行為と比較して関連づけながら、一人一人の「病的状態からの学習(回復)」に取り組むリハビリテーションである。

[2]

 比較とは世界を関連づける認知機能である。まず、2つの絵画を比較して関連づけてみよう。それが行為間比較の理解につながるはずである。  ここで取り上げるのはマネ(Manet)の『オランピア(1863)』とティツィアーノ(Tiziano)の『ウルビーノのヴィーナス(1538)』の比較である(図1)。

絵画:マネの『オランピア』 絵画:ティツィアーノの『ウルビーノのヴィーナス』
図1 マネの『オランピア』とティツィアーノの『ウルビーノのヴィーナス』

 マネの『オランピア』は1865年のパリのサロン(官展)でスキャンダル(怒り)を巻き起こした。バタイユによれば、詩人のヴァレリーが「われわれは新しい世界に入る、そして幕が上がると”オランピア”だ」と記しているという。これは近代絵画の誕生を意味している。一体、何が起こったのか。それはフィレンツェのウフィツィ美術館にあった『ウルビーノのヴィーナス』との比較から生まれた。
 類似として、ティツィアーノの『ウルビーノのヴィーナス』をマネが剽窃(盗作)していることは明らかである。事実、マネがウフィツィ美術館で模写したデッサンが残っている。ベッドに横たわる女性のヌードが描かれている点が共通している。その姿勢は同じでどちらの”まなざし”もヌードを見る鑑賞者に向けられている。差異としては、オランピアは現実的で非官能的だが、ヴィーナスは神話的で官能的である。また、マネはカーテンを閉めることで奥行の空間を消して凡庸な平面感を構築している。ティツィアーノは奥行きのある立体感と物語的な謎を構築している。マネの描く女性は肌が単に白く淡泊で、花束を手に持つのは召使の黒人女性である。足にサンダルを履いている。ネコを白から黒に変えている。これらは絵画的な類似と差異の一部である。
 重要なのは『オランピア』がスキャンダル(怒り)を巻き起こした理由である。実はオランピアは当時のパリにおける「娼婦」の通称だった。また、召使を雇えるのは高級娼婦で黒人女性が顧客から贈られた花束を持っている。つまり、その意味がサロン(官展)に来た上流階級(ブルジョワジー)の観客たちにわかった。オランピアの肉体を好む者、彼女に花束を贈っているのは上流階級の観客たち自身だったのだ。このメッセージ(message=情報)を受信した多くの上流階級の観客たちは「こんなふざけた絵画はサロン(官展)に相応しくない」と怒った。
しかし、もう一つ、サロン(官展)には『オランピア』だけが展示されていた点が重要である。マネは『オランピア』を意図的に非官能的で凡庸な“ヴィーナスの比喩(メタファー)”として推論(アナロジー)を誘導するように描いている。
 つまり、絵画的には剽窃(盗作)を装うことで『ウルビーノのヴィーナス』の記憶を想起させ、意味的には「あなた方の大好きなヴィーナスはこの女性でしょう」と、アイロニーに満ちた強い皮肉を込めたメタ・メッセージ(metamessage=メタ情報)を送っている。Batesonによれば、メタ・メッセージとはメッセージが伝えるべき本来の意味を超えて別の意味を伝えることである。この“ヴィーナスの逆説”を受信した一部の上流階級の観客たちは、マネの挑発の真の意味を理解して激怒したのである。
 だから、『ウルビーノのヴィーナス』を見たことのない者、記憶を想起しなかった上流階級の観客たちは比較できなかった。メタ・メッセージの交換には、過去に見た『ウルビーノのヴィーナス』と現在の『オランピア』の比較が必要である。比較には2つの絵画が必要で『ウルビーノのヴィーナス』は過去の記憶である。マネは上流階級の観客たちにウフィツィ美術館で見た絵画の記憶や画集の記憶を想起させ、その上で『ウルビーノのヴィーナス(記憶)』と『オランピア(現実)』の比較を求めている。それによって自己の経験を参照した関連づけが生まれるように仕向けている。オランピアとベッドで過ごした時の自己のエピソード記憶が想起され、その経験がマネの挑発的なメタ・メッセージと”結びつく”ことで、自分がバカにされていることに気づいて怒りが爆発するのである。
 この『オランピア』の現実と『ウルビーノのヴィーナス』の記憶の比較によって、上流階級の観客たちの”まなざし”は「絵画を見る」から「絵画を読む」へと情報の構築が変化している。あるいは、絵画の真の意味という「見えないものを見る」ことによって怒りの意識経験が生じている。それは2つの絵画の比較を「感覚(光明、色彩、色相)」、「知覚(物体、構図、空間)」、「認知(神話、歴史、物語)」だけでなく、自伝的なエピソード記憶を想起し、「感情」で関連づけたからに他ならない。
 人間は比較と関連づけによって世界に複数の意味を与える。それが絵画に新たな意味を与えている。したがって、比較と関連づけは認知過程(知覚、注意、記憶、判断、言語、イメージ、比較、関連づけ)に含めなければならない。また、比較と関連づけは人間の高次な知性の一つである。だとすれば、「認知の樹」の果実は「比較」と「関連づけ」によって生み出される。

[3]

 行為間比較では、過去の行為(エピソード記憶)を想起し、その「記憶のなかの行為」−「訓練としての行為」−「現実の行為」の知覚における差異と類似を比較し、関連づけてゆく。その知覚情報の関係性を脳が理解した時、認知過程が変化して脳の可塑性が生じる。その結果、生きている世界に新たな意味が与えられる。
 それは比較と関連づけによって、マネの『オリンピア』とティツィアーノの『ウルビーノのヴィーナス』に新たな意味が与えられたことに似ている。視覚的に絵画の世界を比較することと、体性感覚的に行為の世界を比較することは、どちらも世界を比較し関連づける点では同じである。自己は能動的推論によって視覚世界や体性感覚世界を推論し、脳の神経ネットワークを自己再組織化しているのである。
 片麻痺は筋肉の異常ではなく、脳の神経ネットワークに生じた「運動の組織化」の異常である。行為の回復(学習)のためには、損傷を受けた脳の神経ネットワークの「運動の再組織化(再学習)」に働きかけるリハビリテーションが求められる。比較と関連づけは、その脳の神経ネットワークへの「働きかけ(介入)」の治療ツール(道具)である。
 『行為間比較』以前の認知神経リハビリテーションでは「知覚のための訓練器具」、「言語」、「運動イメージ」などを治療ツールとして活用してきた。さらに、比較や関連づけによって想起される「心的イメージ」が新たな治療ツールとなった。それが病態によって生じた「情報のカオス」を運動の再組織化へと導く役割を果たす。そして、一人ひとり異なる心的イメージが、何とどのような比較によって関係づけられるかによって、行為の回復の「質」が異なってくる。そして、運動の再組織化のためには、知覚の再組織化に働きかける必要がある。その鍵は運動(情報の予測)と知覚(情報の結果)を比較し、関連づけることである。

[4]

 人間は常に世界を比較している。自己と他者を比較している。比較は「情報」を選択したり、識別したり、認知したり、行為するときに利用する高次な認知機能である。その点で比較という認知機能は意識、知識、知性、発達、学習、行為において決定的に重要である。また、片麻痺という病的状態から学習(回復)するには、情報を構築する認知過程の再組織化が必要である。ペルフェッティが『行為間比較』で主張しているのは、この脳の情報の構築に「過去の情報」と「現在の情報」の比較と関連づけが有効だという仮説であると考えられる。
 情報(information)とは何だろうか。情報は何を知りたいのかによってピックアップされる。ネット上には無数の情報が溢れているが、旅行したくてホテルの空室状況と価格を知りたい時には、ホテルの宿泊についての情報がピックアップされる。
 だとすれば、運動の再組織化(知覚の再組織化)においても情報は必要である。たとえば、歩行の再学習にも情報のピックアップが必要である。どのように歩行すればよいか。その運動の使い方(運動メロディ)を再学習するためには、下肢の体性感覚的な知覚情報や地面の知覚情報(知覚メロディ)がピックアップされなければならない。その時、最も重要なのは、一歩行周期(立脚相と遊脚相)のどの時期に「何のどの上方が優先的に必要なのか」を知ることである。なぜなら、ペルフェッティが「運動は、知覚の必要性によって生じる」と言っているように、「運動は、知覚探索によって生じる」からである。
 ベイトソン(Bateson)は情報を「差異によってつくられた差異である」と定義している。ペルフェッティは「脳は物理的な差異を認知的な差異に変換する」と述べている。そして、この認知過程に比較を加えることで、さらに情報の構築を図ることができる。
 だが、ベイトソンによれば「差異、つまり情報という認識が生まれるためには、二つの実体(現実のもの、あるいはイメージされたもの)が必要である」。さらに、「その二つの間の差異が、その二つの間の相互関係に内在的であることが必要である」と言っている。
 つまり、それぞれ一つ(単独)では、認知過程にとって情報は非実体(非存在)であるということだ。片手で拍手できないのと同じように、単独では差異をつくれず不可知である。そのためベイトソンは「差異は、関係性(関連性)という特性があるゆえに、時間や空間の中に位置づけられるものではない」と断定している。そして、「学習と精神の各要素の組織化のためには“結びつける構造”が必要である」としている。
 さらに、ベイトソンは「比較するためにはその2つの間に差異と類似の関係が生じていなければならない」と言っている。ただし、差異と類似の関係は「差異があるが類似もある」とか「類似もあるが差異もある」といった関係である。差異と類似はどちらを先に見るかの視点の問題に過ぎない。差異を知るには類似を知っておく必要があり、類似を知るには差異を知っておく必要がある。
 誰もが何かと何かを比較し、関連づけながら過去の日々を生き、現在の日々を生き、未来の日々を生きる。その来歴には無数の行為の記憶がある。その「情報のカオス」にどのような意味を与えるかによって世界は違ってくる。セラピストの「働きかけ(介入)」によって行為の回復(学習)は違ってくる。セラピストは病態によって生じた「情報のカオス」の現在の状態から、目的とする行為の回復に有用な「過去の行為」を選択し、その行為の記憶の中にある多感覚情報の想起を促し、比較と関連づけを治療ツールとした「心的イメージ」の想起を求め、「行為の再組織化」に働きかける必要がある。そして、その鍵は現在の行為と過去の行為における運動(予測)と知覚(結果)を比較し、関連づけることである。

[5]

 マネは近代絵画を誕生させた。『オランピア』は絵画の意味を変えた。ベッドにヌードで横たわり、絵画を見る者に強い”まなざし”を向けるオランピアが、現在を生きるパリの娼婦であったことを思い出してほしい。マネは絵画の歴史に「現在を生きている人間のリアルを持ち込んだ」のである。そして、オランピアの意味は上流階級(ブルジョワジー)の観客たちの記憶の想起によって生まれていた。その点で「行為間比較」において行為を比較し関連づけることと似ている。
 認知神経リハビリテーションの研究においては「認知を生きる(身体意識の一人称言語記述)」の研究の後に「行為間比較(行為の記憶)」の研究が始まった。これを近年の認知神経科学の「身体化感覚」や「身体性認知」の知見に対応させると、「認知を生きる」の研究は「最小限の自己(身体所有感や身体スキーマ)」に、「行為間比較」の研究は「物語自己(運動主体感や身体イメージ)」につながっている。
 また、この最小限の自己と物語自己が合わさって「身体意識(自己感)」がつくられる。そして、この身体意識(自己感)は一人の「行為の主体(私)」なのだが、行為イメージが無数に存在すれば「無数の主体(私)」が存在することになる。「認知を生きる」の研究と「行為間比較」の研究は、自己の再組織化に向かう両輪だと解釈すべきである。

[6]

 ここで思い出しておきたいのは、ペルフェッティの『行為間比較』のアイデアが、セザンヌの「サント=ヴィクトワール山」をめぐる論議から始まっている点である。マネは近代絵画を誕生させたが、セザンヌは新たな近代絵画を誕生させた。セザンヌはマネ以上に20世紀の絵画に大きな影響を与えたというのが西洋絵画史の通説である。なぜなら、印象派、フォービズム、キュビズム、抽象絵画などの出現に寄与しているからである。
 ペルフェッティは、『セザンヌとお茶を』と題した小さな勉強会で、友人のピサ大学哲学科のヤコノ教授と「中間世界」について論議した。その中でセザンヌの「サント=ヴィクトワール山」と「行為間比較」を結びつけている。
 セザンヌはサント=ヴィクトワール山の絵画を60枚も描いている(図2)。それはセザンヌの脳には膨大な数のサント=ヴィクトワール山の脳表象が存在していることを物語っている。あの日、あの時のサント=ヴィクトワール山の記憶は無数にある。この点についてペルフェッティは2010年のサントルソのマスターコースでの「選択の可能性としてのイメージというツール」と題した講義で次のように述べている。


 セザンヌのサント・ヴィクトワール山は現実を表象したものです。60枚のセザンヌのサント・ヴィクトワール山の絵は、どれをみてもサント・ヴィクトワール山を描いたものであることが分かります。かなり抽象的な表象もありますが、それでもサント・ヴィクトワール山であることがわかるのです。おそらくそれは、どの表象にもピサ大学のヤコノ教授の言う「中間世界」、その「意味の宇宙Universo del significato」が含まれているからです。つまりサント・ヴィクトワール山だと認識させてくれる一連の要素とそれらの関係性が含まれているからです。
 しかし、小さな四角で囲まれている絵画を分割した部分だけを見たら、サント・ヴィクトワール山だとわかるでしょうか。おそらく認識できないでしょう。中間世界の理論を勉強することで、私たちは、我々が患者さんに想起させていた表象(イメージ)が、部分的すぎるのではないかと考えました。あまりに部分的過ぎて、現実を全体として捉えるには意味を成さなかったのではないでしょうか。運動イメージの中には、それがたとえ単純な形であっても、運動を構成する諸要素の関係が表象されていなければならないのではないかと考えました。
 ヤコノ教授は、われわれは一つの現実に対して、複数の中間世界、複数の表象を持つことができると言っています。しかし彼は「目の端では」同じ現実に対する他の視線も捉えることができるとも言っています。つまり我々は、自分の構築した表象が唯一の表象ではないことを意識していなければなりません。
 セラピストは患者の言語を介して、患者がどのような中間世界を構築しているのかを理解し、それが正しい中間世界であるかどうかを理解しようとします。患者さんが一つの中間世界しか作れないということがよくあります。一つしか構築できず、それも変質した中間世界であることもあります。私たちの役割は、患者さんにいろいろな感覚モダリティーを介して現実を捉えることを教え、さまざまな中間世界を作れるようにしていくことです。つまり、世界に複数の異なる意味を与える可能性を教えていくことです。患者さんの「自由」を構築するということは、患者さんに選択の可能性を与えてあげることなのです。

絵画:セザンヌのサント=ヴィクトワール山 絵画:セザンヌのサント=ヴィクトワール山』
図2 セザンヌは60枚のサント=ヴィクトワール山を描いた


[6]

 このセザンヌのサント=ヴィクトワール山と行為間比較の関係性を理解するには、近代絵画の誕生においてセザンヌの絵画が果たした役割を説明しなければならない。しかし、その説明は簡単ではない。また、ヤコノ教授の言う「中間世界」とは何かを理解する必要もある。この「中間世界」は「心的イメージの世界」のことである。
 セザンヌの絵画は「感覚の現実化(リアライゼーション)」の探求である。一つのサント=ヴィクトワール山がさまざまなタッチや色彩の調和によって変化する多様さを思い出してほしい。セザンヌは自己が感覚したサント=ヴィクトワール山の多様さの証として60枚の絵画を描いている。そして、そのすべてが一つのサント=ヴィクトワール山の「感覚の現実化」である。
 次に、一つのサント=ヴィクトワール山を一つの行為と捉えてほしい、その一つの行為が仮に60の行為の脳表象(中間世界=心的イメージ)として想起できると解釈してほしい。60の脳表象は多様だが、「行為の現実」そのものではない。つまり、一つの行為の現実は60の行為の脳表象(中間世界=心的イメージ)なのだ。これは行為の主体(自己)は一つではなく、行為は多様な行為の主体(自己)によって生み出されているということである。また、それらは比較し、関連づけることができる。
 だとすれば、中間世界としての心的イメージは過去−現在−未来に無数に存在している。そして、それぞれの中間世界は何かを比較し、関連づけることで結びついている(推察、類推、アブダクション)。一つの行為の現実は多様な行為の心的イメージと結びついている。そして、これは「運動の自由度問題(ベルンシュタイン問題)」に似ていて、その謎を解くのは難しい。
 したがって、セザンヌの「感覚の現実化」の説明は抽象的で不十分な説明に過ぎないが、このセザンヌが世界に”まなざし”を向ける時の「脳表象(中間世界=心的イメージ)」のニュアンスをセラピストが掴まなければ、「行為間比較」の意味は理解できないように思われる。ここは確かに難解である。マネやセザンヌの絵画を使って比較と関連づけの説明をして、さらに難解にしてしまったかもしれない。
 だが、この脳表象とは何かを理解することは本当に難しい。たとえば、サルトルは人間の意識を「知覚(現存・・・目の前の何かを見ること)」と「想像(不在、目の前にない何かをイメージすること)に区分している。過去の行為の記憶は「想像」に相当する。ただし、それは実際に経験したものだ。これは「予測(見えている世界の次の出来事の知覚仮説)」と「予期(見えない世界の次の出来事の知覚仮説)と似ている。自動車を運転していて交差点に横から他の車が侵入してくるのが見えたら、衝突を推察してブレーキを踏むのが「行為の予測」である。一方、横から他の車が侵入してくるのが見えないが、もし侵入してくると衝突の可能性があるので、ブレーキを踏んでスピードを落とすのは「行為の予測」である。
 また、行為の記憶はエピソード記憶と手続き記憶の両方が関係する。さらに、ベルクソンは「現在の知覚には過去の知覚が含まれている」として「純粋知覚」の持続を強調している。行為の記憶を海馬に留めておくことと、記憶を想起することも違う。行為の記憶は受動的だが、想起は能動的である。こうした「行為の記憶」の脳表象(中間世界=心的イメージ)を生理学用語や心理学用語で分類し、「イメージを全体と部分の要素還元的に捉えても脳表象の理解には至らない可能性が高い。
 脳表象(brain representation)」は「世界の類似的代理物(アナロゴン)」であり、「あるものの代わりにある何か」なのだが、それが「何か」はわかっていない。それは脳表象(脳のニューロン活動)が「物体の宇宙」の反映(たとえば身体部位再現)であると同時に「意味の宇宙」の反映(たとえば行為の意味再現)でもあるからだ。脳表象には意識の志向性(作用と内容)があり、「行為の記憶」に意識を向けることができる。そして、その行為の記憶は「未来の行為」を想像することにも使われる。

[7]

 いずれにせよ、脳に損傷が生じると、一つの現実の行為と複数の行為イメージの結びつきが認知過程(知覚、注意、記憶、判断、言語、イメージ)から消える。行為の脳表象のいくつかが「空白」になる。その認知過程の空白を埋めるリハビリテーションは可能なのだろうか。認知神経リハビリテーションは認知問題によって認知過程の空白を埋めようとしてきた。ただし、それは主に現在の身体の意識経験の多感覚(現在の知覚)への「働きかけ(介入)」であった。だが、それではまだ不十分であった。
 そこで、『行為間比較』では、現在の身体の意識経験の多感覚(現在の知覚)だけでなく、過去の行為の記憶の多感覚(過去の知覚の記憶)を認知リハビリテーションに組み込み、そこから予測的な「未来の記憶(展望記憶)」を想起させようとしているのである。
 結論づけよう。これを「心的時間旅行(mental time travel,メンタル・タイム・トラベル)」という。行為の回復(学習)のために、心的時間旅行を求め、現実の行為と行為イメージを比較し、関連づけようとしているということだ。
 認知神経リハビリテーションは、1990年代から「運動イメージ」を治療プロセスに導入してきた。その頃、リハビリテーションの世界では運動イメージを利用する治療など存在しなかったが、今では導入されている。行為間比較は2010年に導入された。今、リハビリテーションの世界では「行為イメージ」を利用する治療など存在しない。多くのセラピストは行為イメージを治療に導入するのは懐疑的であろう。だが、現在のみを生きる動物には使えないだろうが、過去−現在−未来を同時に生きる人間には使うことができる。
 行為イメージは想像力であり、人間の脳の特性である。日々の自分の想像力を反芻してみよう。誰もが人生で経験した過去の行為を想い出したり、人生で経験したい未来の行為を想い描いて生きている。それは人間の脳にとって「当たり前」で日常的なことだ。
 リハビリテーションの臨床で、麻痺した身体の声(どのように感じているかの意識経験)をメタファー的に聴くと共に(最小限の自己)、行為の記憶と現在の行為の多感覚経験の差異について対話することで(物語自己)、大きな”驚き”と治療のヒントが生まれるはずである。
 21世紀のリハビリテーションでは、行為イメージが人間の「脳のリハビリテーション」の治療ツールとなるだろう。だから、次の言葉が重要性を帯びてくる。

 すべての行為は、行為する主体の歴史の一部である。
 運動麻痺が発生しても、脳には行為の記憶が生き生きと存在している。

文献

  1. 宮本省三:行為間比較の学習ストラテジー ;「比較」と「関連づけ」が脳を改変する.認知神経リハビリテーションジャーナル.第24号,2025.
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