認知神経リハビリテーション学会

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メッセージNo.66  「君は何を見ているのだろうか?」

 世界には見えるものと見えないものがある。たとえば、人間の身体は見えるが、心は見えない。あるいは、物体や現象は見えるが、その意味は 見えない。

神戸での第16回日本認知神経リハビリテーション学会学術集会(抄録集,2015)の表誌にはジョルジュ・ド・ラ・トゥールの『いかさま師(1635)』が使われている。これは「運動麻痺の回復」には「注意(attention)」の回復が必要であることのメタファーである。

ジョルジュ・ド・ラ・トゥール作「いかさま師」

 ここで君に尋ねてみたいのだが、「注意」は見えるものだろうか?  科学的に注意は「心的」な脳活動である。したがって、注意は見えないはずだ。しかし、『いかさま師』の絵を見ると注意は見える。だが、注意を見えていると想うのは絵を見る者の主観である。その主観は言語で記述できるが、それは科学(客観)ではない。

 だからだろうか、片麻痺のリハビリテーションにおいて、注意障害の存在は認識されているものの、そのリハビリテーション治療は視覚的な注意を促進しようとするものが多い。

 たが、注意の働かない者に対して、どのように注意させればよいのだろうか? そのことは半側空間無視(USN)のみならず失行症や発達障害児へのアプローチにおいても苦慮する。

 認知神経リハビリテーションでは、患者を閉眼させ、自己の身体への「空間的な注意」や物体の特性への「接触的な注意」を求める。仮に、「視覚的注意」、「聴覚的注意」、「体性感覚的注意」があると仮定すると、認知神経リハビリテーションは「体性感覚注意」を重視している。

 ここで君に尋ねてみたいのだが、君は注意をバースの「グローバル・ワークスペース」における「注意のスポットライト」のように解釈しているのではないだろうか。広い舞台のどこかを焦点化する、あの光線のことである。

 だが、これは視覚のメタファーではないだろうか。つまり、注視のことである。

 ところが、僕の考える注意は視覚のメタファーや注視のことではない。何て言ったらいいのだろうか。もっと、別のものだ。

 心が、何かに「意識の志向性」を向けることが注意なのであり、注意を向けた対象のことではないのだ。

 ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの『いかさま師(1635)』をもう一度、注意深く見てほしい。この絵の注意とは、騙す者と騙される者との「関係性」の中に潜んでいる。

 だから、もし、この絵画が「いかさま師」だけを描いていたり、騙されている右側の人間だけを描かれていたら、僕ら絵画を見る者は「注意」を見ることができない。注意は視覚のメタファーや注視ではなく、二人(あるいは三人)の関係性として描かれている。

 だとすれば、注意障害は何かに「まなざし」を向けて注視することではなく、「何かと何かとの関係性に気づくことができない認知障害」と捉えるべきではないだろうか。

 君は何を見ているのだろうか?

 もしかすると、君は臨床で患者の注意障害を検査しても、実は患者の注意障害は見ていないのかも知れない。それで患者の注意機能が回復するわけがない。

 そのことに君が「意識の志向性」を向けなければ、人間の高度に発達した注意機能は見えないだろう。注意は、いつも行為の文脈の中で現れたり消えたりしている。関係性の変化と共にあるということだ。

 そして、僕は、「運動麻痺の回復」には「注意」の回復が必要だと考える。運動と注意の関係性を知らなければ運動学習は生じないし、その関係性を無視したリハビリテーション治療は運動学習を生じさせないと考える。

 そして、「体性感覚から得られる知覚情報と意識の志向性との関係性を患者に教えなければならない」と考えている。

 身体の運動に空間性、時間性、強度があるように、注意にも空間性、時間性、強度がある。運動は知覚探索であり、確かに運動を介して知覚することが「運動麻痺の回復」には必要だ。

 だが、それだけでは不十分で、その知覚の空間性、時間性、強度に「注意を向ける能力」を回復させる必要がある。

 ところで、君はルリアの「ロマンチック・サイエンス」という言葉を知っているだろうか? ロマンチックとは主観を言語で記述した内容のことだ。「注意を向ける能力」の障害は患者の言葉の中に見える。

 だとすれば、動きを見ると同時に、言葉を見ることが重要になる。
 患者の動きと言葉の関係性に「意味」が潜んでいるのではないだろうか?

 たとえば、座位で体幹が側方傾斜している片麻痺患者さんが、「患側の殿部」に注意を向けると直立した座位を取れるようになったことがある。その患者さんは「お尻の骨が消えている」と言った。さらによく尋ねてみると、「消えているお尻の骨」とは「患側の坐骨」のことだった。
 おそらく、それまで座位で坐骨の圧を知覚できなかったのだろう。あるいは、坐骨の圧の知覚に注意を向けることができなかったのだろう。

 このように、患者の動作分析では、「注意を向ける能力」を見なければならない。それによって「見えないものが見えてくる」ことがある。

・・・・・・・・・

*ある若いセラピストからの受けた質問(患者の動作分析で何を見ればよいか?)に対する返答

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