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メッセージNo.74 龍安寺の石庭、砂の花壇、に思う

 白い砂の海に15個の石が島々のように浮かぶ「庭」がある。京都、『龍安寺』の石庭と砂の花壇である。

『龍安寺』の石庭と砂の花壇

 『我々の心の眼がこの庭園のながめにうっとりするとき、我々は個人としての私の相 対性によって自分自身が裸になるのを感じるだろう。その一方で絶対的な私についての直感が我々を穏かな驚きで満たし、我々の曇った心を清めてくれるだろう。』

 『この砂の庭園は果てしない大洋に浮かぶ岩だらけの大小さまざまな島々、あるいは雲海に聳える高い山々の頂だと見なすことができる。この庭は、寺の壁に縁取られた一幅の絵画と見ることも、その額縁を忘れて、砂の海が無限にひろがり全世界を覆い尽くしているのだと自分に言い聞かせることもできる。』

 イタリアの作家イタロ・カルビーノは、1983年に小説「パロマ」を書いている。その中の「砂の花壇」と題された章には、上記の文章が龍安寺を訪れた参観者に配られる住職の署名入りパンフレットにあったと記しているが、現在のパンフレットにはそうした記述は見当たらない。

 カルビーノは主人公のパロマ氏に次のように語らせている。

 『パンフレットに書いてあることは、実にもっともらしく、即座に簡単に適用できそうにみえる。もっともひとりの人間が個人であることを捨て、解体し、視線のみになりうるような「私」の内側から世界を眺めている、そう心底確信していればの話である。だが、この前提こそ、なお一層想像力を働かせることを要求するものなのである。』

 ある日の午後、龍安寺を訪ね、その「砂の花壇」を眺めた。実は、白い砂の海には15個の石が浮かんでいるのだが、廊下のどこからから眺めても、必ず1個の石は他の石の陰に隠れるようになっており、人間の眼には14個の石しか見えないように配置されている。そんな不思議な空間の幾何学が、見る者の想像力をかき立てる。そんな奇跡に驚きながら、廊下の縁側を歩きながら何度も石を数えてみたが、どの角度から見ても石は14個しか存在しない。
 この石庭は「弾の美」を空間的に表現しているとされている。おそらく、この石庭は真実を見ることの困難さを表現しているのだろう。ある何かに複数の視線を投げかけ、それで真理を発見したと思っても、どこかに必ず欠落した視線が生まれるということだ。そのことを人間が忘れないようにと石が配置されているのではないか。
 つまり、この石庭にはどこから眺めても視線の盲点があるのだ。それはリハビリテーション治療において患者を観察する時も同じだと心に刻みながらも、単純な僕は15個の石を見るにはどうすればよいかを考える。やがて、そうだ上空から見ればよいと思いつく。だが、これは本当の答えだろうか。真実に到達した解答だろうか。そうではないことを、そう考えた本人が一番わかっている。
 もっと、この石庭を心の眼で見つめなければならない。しかし、石はいつまでたっても14個である。そこで考えた。そうだ目を閉じればよいのだ。目を閉じて、庭に入り、手で一つ一つの石に触れて数えればよい。そうすれば15個に到達できるだろう。視覚世界なら14個だが、身体感覚の世界なら15個に到達できる。だが、庭に入ることは許されない。長い間、人間の空間認知(身体空間、身体周辺空間、外部空間)について勉強してきたが、残念ながら僕の想像力はこの程度だ…。

 現在のパンフレットには、『この庭は、石の象(かたち)、石群、その集合、離散、遠近、起伏、禅的、哲学的に見る人の思想、信条によって多岐に解される』と記されている。

 カルビーノの小説「パロマ」は、もう10年以上も前にサントルソ認知神経リハビリテーションセンターで長期研修した時に持って行き、休日に何度も読み返した愛読書である。

 この本の最後にカルビーノはこう書いている。

 『わたしたちは、自分を飛び越して、何もわたしたちの外部について知ることはできない。』

 『宇宙は、わたしたちが自分のなかで学び知ったことだけを瞑想することのできる鏡なのだ。』

 龍安寺の石庭、砂の花壇を眺めながら、僕は「世界は不思議だ」と思う。
 リハビリテーションの世界に15個目の石はあるのだろうか?

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