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ある人が、世界史や日本史を勉強しているので、「なぜ、今さら勉強するのか?」と尋ねると、「知らずに、死ねない」という言葉が返って来た。この考え方はとても重要な点を突いているように思う。
人は生まれて死ぬ。誰でもそうだ。だが、人はそれぞれ「ある時代」を生きる。ある時代の世界を、日本を生きる。それは自明のことのように思われる。しかし、死ぬとき、その生きた時代や世界や日本のことを知らずに死んでしまうと、自分が生きた時代や世界や日本を知らないまま死ぬことになってしまう。それでは自分が生きた意味がわからないまま死ぬことになってしまうのではないだろうか。だから、ある人は「知らずに、死ねない」と言ったのだろう。
自分が生きた意味がわからないということは、どういうことなのだろうか。人は、自分が生きた経験にさまざまな意味を与えることができる。それはそうなのだが、それでは自分がどう生きたのか、誰と一緒に生きたのか、江戸時代を生きたのか、トランプ大統領が話題になっている現代を生きたのかを知らなくてもいいということになってしまう。生きることは個人史であり、家族史であり、社会史でもある。それらを知ることの内に、自分が生きた本当の意味があるはずだ。だから、ある人は「知らずに、死ねない」と言ったのかも知れない。
これをセラピストに置きかえてみよう。一人のセラピストはある時代のリハビリテーションを生きる。世界の、日本のリハビリテーションを生きる。しかし、死ぬとき、その生きた時代や世界や日本のリハビリテーションを知らずに死んでしまうと、自分が生きた時代や世界や日本のリハビリテーションを知らないまま死ぬことになってしまう。それでは自分が生きた意味がわからないまま死ぬことになってしまうのではないだろうか。あるいは、それでは自分が生きた経験にさまざまな意味を与えることができなくなってしまうのではないだろうか。生きた本当の意味を見失ってしまうことになるのではないだろうか。だから、セラピストは「リハビリテーションを知らずに、死ねない」と言うべきだろう。
この「知らずに、死ねない」という言葉は、私の意志の表明である。それは自分の人生に意味を与えることの表明である。
だから、自分が好きなら、「自分を知らずに、死ねない」と考えるべきである。
だから、誰かを好きなら、「あなたを知らずに、死ねない」と考えるべきである。
だから、何かが好きなら、「その何かを知らずに、死ねない」と考えるべきである。
そして、これは「学問」についても言える。たとえば、脳科学(ニューロ・サイエンス)の知について考えてみよう。
一人のセラピストはある時代の脳科学の知を生きる。世界の日本の脳科学の知を生きる。しかし、死ぬとき、その生きた時代や世界や日本の脳科学の知を知らずに死んでしまうと、自分が生きた時代や世界や日本の脳科学を知らないまま死ぬことになってしまう。それでは自分が生きた意味がわからないまま死ぬことになってしまうのではないだろうか。あるいは、それでは自分が生きた臨床経験にさまざまな意味を与えることができなくなってしまうのではないだろうか。だから、もし、脳科学の知が自分の仕事に有用だと考えるなら、セラピストは「脳科学を知らずに、死ねない」と言うべきではないだろうか。
ペルフェッティは、リハビリテーションは脳科学の応用分野だと言っている。その意味は単に病態解釈や治療に理論負荷するという意味だけではない。その意味は脳科学の知を応用して、新しいリハビリテーションの時代、新しいリハビリテーションの世界、新しい病態解釈や治療をつくるという、回復の可能性の探求である。
今回のスペシャル・セミナー「行為とこころのニューロサイエンス」には、そんな期待と希望を込めている。認知神経リハビリテーションに興味をもつ者はもちろんだが、脳科学の知見をリハビリテーションに応用しよう考えている多領域のリハビリテーション関係者にも大勢参加してほしい。きっと、脳科学のトップランナーであるアンジェラ・シリグ教授と入来篤史教授も「脳を知らずに、死ねない」と考えているはずである。
脳科学(ニューロサイエンス)が、新しいリハビリテーションの時代、新しいリハビリテーションの世界、新しい病態解釈や治療の構築を可能にするかどうかは、セラピストが「脳を知らずに、死ねない」と考えることから始まる。
それは「人間の行為とこころを知らずに、臨床はできない」という考え方につながっている。
それは「患者の行為とこころを知らずに、治療はできない」という考え方につながっている。
I will never die ,without knowing
もうすぐ春がやってくる
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