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画家の小出楢重(1887-1031)はエッセイ『楢重雑筆』(中央美術社,1927)の中で「触覚」について次のように記している。
触覚のモティーフはまず大体凸凹、ブツブツ、クシャクシャ、ザラザラ、ガタガタ、ゴツゴツ、コツコツ、カチカチ、ヘナヘナ、ヒリヒリ、サラサラ、ヌラヌラ、スベスベ、カサカサ、フワフワ、ネバネバ、ニチャニチャ、張力、弾力、円錐、球、楕円、三角、鋭角、鈍角、平面、四角、八角、ギザギザ階段、その他いろいろの複雑な立体などである。要するに、目で見てははっきり感じられないもので、触れて初めて味の出るものばかりだ。
小出楢重は触覚のモティーフ(モチーフ)を「擬態語(擬音語)」で表現している。擬態語とは「事物の状態や身ぶりなどの感じをいかにもそれらしく音声にたとえて表した語」である。それは事物の触感の比喩(メタファー)に相当する。また、擬態語は身振りの視覚的な比喩にも使われる。たとえば、「じろじろ」見るや「こっそり」見るなどである。
重要なのは、小出が擬態語を「触覚のモチーフ(motif)」と呼んでいる点である。モチーフとはラテン語の「motivum」に由来する言葉で、「動きを与えるもの」を意味する。つまり、物体の運動や人間の運動を引き起こす「動機づけ(motivation)」に関係している。それが芸術作品においては「表現の主題、動因、理由、中心的な思想、作品全体の想い、作品の意図、表現しようとしているもの」などを指し示す用語として使われるようになった。
だとすれば、触覚のモチーフは運動の動機という意味を含んでいる。「ブツブツ」や「ザラザラ」は「身体に動きを与えるもの」だと解釈できるかも知れない。あるいは、行為の意図を読み取ることのようにも思える。他者を見て、「他者がじろじろ見ている」とか、「他者がこっそり見ている」と思うのは、他者の身振りを観察して行為の意図を読み取ることである。
だとすれば、手足が事物に触れることも「事物の意図を読み取ること」だと言える。手足が触れると事物が「ザラザラしている」と呼びかけてくる。私は、ひょっとすると「ゴツゴツ」かもしれないし、「サラサラ」かもしれないと頭の中で予測(予期)しつつ、その「我思う(想起したザラザラ=知覚仮説)」が正しいかどうかを確認するのである。
ペルフェッティ(Perfetti)は、行為(action)は「意図の想起に始まり、結果の確認に終わる」と言っている。この行為は日常の生活行為だけでなく認知神経リハビリテーションにおける「訓練(認知問題−知覚仮説−解答)」も含まれる。日常の生活行為も訓練としての行為も「意図の想起に始まり、結果の確認に終わる」という意味である。
そして、この内的表象として想起される「意図(intention)」は「我思う」である。あるいは、意図は未来に投射する「知覚仮説」である。それは「私の意図として想起した”事物の意図(触覚のモチーフ)”」であり、その内的な意図(知覚仮説=運動イメージ)が外的な事物の属性(結果)と一致した時、正しい行為が終わる。
ここでは認知神経リハビリテーションにおける目を閉じて「物体の表面性状を識別する訓練」を考えてみよう。この片麻痺の手の訓練では触覚の擬態語が使用される。患者は「ザラザラ」なのか、「ゴツゴツ」なのか、「サラサラ」なのか迷う。患者には運動麻痺や感覚麻痺が発生しており、「物理的な差異(触覚的な差異)」を「認知的な差異(言語的な差異)」に情報変換することが難しい。
物体の表面性状を識別する訓練
(from La Riabilitazione Neurocognitiva a Pisa)
この時、触覚から言語への情報変換が難しいと「我思う」のは「触覚的な身体」である。そして、患者が「我思う」時、自己の「触覚的な身体」に意識の志向性を向けるのではなく、外部世界の事物に「触覚的な身体」を投射することが重要である。外部世界の事物に意識の志向性を向けると、自己の「触覚的な身体」は消える。
意識は一つであり、身体と物体が相互作用する時(運動する時)、自己の身体に意識の志向性を向けると物体の属性が消える。物体の属性に意識の志向性を向けると自己の身体が消える。
神経リハビリテーションの訓練では、よく「自己の身体を感じること」を要求するが、それは運動覚に準拠した空間問題(方向、距離、形)の場合である。触覚に準拠した接触問題(表面、固さ、重さ)の場合は、「ザラザラ」と感じた「触覚的な身体」を事物の側に投射する必要がある。なぜなら、「ザラザラ」しているのは自己の身体ではなく事物の側だからである。つまり、手足が触れている物体が「ザラザラ」していると感じた時、自己の「触覚的な身体」は意識から消えるということである。
また、患者が「表面性状を識別する訓練」で迷う時は、過去の行為の記憶を呼び戻すといいだろう。現在の「触覚的な身体」を介した事物の触感が曖昧でも、その物体の「触覚のモティーフ」は患者の記憶の中に保存されている。行為の記憶に意識の志向性を向け、「我思う」ことによって物体の触感を呼び覚ませば、内的な意図(知覚仮説=運動イメージ)が変わるだろう。
哲学者のジャック・デリダ(Jacques Derrida, 1930-2004)は『触覚』(松葉祥一・榊原達哉・加國尚志訳,青土社,2006)の中で、メルロ=ポンティの「肉」の意味を探求し、「触覚は”我思う”として存在し、また結局それは”私の肉”に他ならない」と述べている。
そして、「触覚の分散なき分散(その第一の例が”私の手”である)」という言葉を発している。
この「私の身体」における「触覚の分散なき分散」という比喩形象は、メルロ=ポンティの「知覚の現象学」の「感覚すること」の章に由来している。視覚や聴覚と触覚は違う。触覚は触覚である。したがって、触覚は他の感覚に分散しない。
しかし、その分散しない触覚は分散する。言い換えると、感覚(触覚)は分散しないが、知覚(触知覚)は分散する。なぜなら、「触覚はコミュニケ―ションに他ならない(メルロ=ポンティ)」からである。「コミュニケ―ション(communication)」とは、「交わる(交わり)」という意味である。コミュニケーションには相手がいる。交わるには触覚と何かが必要である。交わることは「相互作用」であり、その「関係性」は分散する。身体と物体の触覚的な相互作用によって、その関係性は知覚レベルで分散する。
たとえば、手が物体に触れて「ツルツル」していると感じるのは一つの「交わり」であり、「関係性」である。だが、「ザラザラ」していると感じるのも一つの「交わり」であり、「関係性」である。そうして、触覚はさまざまな触知覚へと変化する。
だから、触覚の分散は身体と物体のコミュニケーション(対話的な情報構築=ハプティック・タッチ)による触感(クオリア)の多様性へと導く。そのコミュニケーション能力の回復が「触覚のモティーフ(多様な擬態語)」と相関してくるのである。
メルロ=ポンティの「触覚はコミュニオンに他ならない」には、「私の身体の触覚的な全体をまるごと支配している一つの触覚とはいかなるものなのか、我々のあらゆる経験に伴いうるものでなければならない”我思う”とはどんなものなのか?」という問いが内包されている。
そして、一つの触覚の生起が「我思う」を伴うということは、「我々に知られる思考はすべて肉に生起する(メルロ=ポンティ)」のであり、人間はそうした「肉」として生きることを意味する。
この「肉」ついて、メルロ=ポンティは「私は、接触が皮膚によっておこなわれことを知っているがゆえに、私は私の心に属するもろもろの知覚を身体のなかへと分散させたりする」と述べている。人間が「触覚的な身体」に根ざした「心に属する知覚」をもっているということであろう。
人間の「肉」は皮膚に包まれている。この「肉」とは「自己と世界の境界」のことである。その自己と世界を区切る境界線が皮膚に他ならない。この境界(区切り)がなければ自己も世界も知覚できない。だが、皮膚そのものは外部世界を知らない。外部世界を知るのは触覚によってである。触覚には自己を知ると同時に世界を知るという二重性がある。人間は自己の触覚によって外部世界を触覚世界へと変える。
つまり、「我思う」とは、「我、物体を知覚する」ということである。ここには意図の改変を伴う「触覚から触知覚への飛躍」がある。
自己の身体は「ツルツル」しているが、物体は「ザラザラ」している。あるいは、自己の身体が「ザラザラ」しているのではなく、物体がザラザラしている。これは「触覚的な身体」が、自己の身体を越えて「外部世界に延長する(物体に投射する)」ということである。そして、その触覚には運動(運動覚や筋感覚)がいつも張り付いて同居している(能動的触覚)。
人間は、その触知覚を「ザラザラ」、「ゴツゴツ」、「サラサラ」などと呼んでいる。
だから、「我思う」のは「肉」なのである。
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