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片麻痺患者は身体の「垂直性」をどのように知覚しているのだろうか。左片麻痺に半側空間無視やプッシャー症候群を伴う症例では垂直性の認知に異常が生じていることが多い。また、片麻痺患者は身体の垂直性をどの感覚モダリティを介して知覚するのだろうか。もちろん、視覚によって頭部や体幹の垂直性は知覚できる。だが、体性感覚や前庭覚によっても頭部や体幹の垂直性は知覚されているはずだ。
もう随分古い学生時代(38年前)の話だが、同級生の安藤努先生(原病院)が『片麻痺患者における垂直性の視覚認知』について卒業研究を行っていたことを思い出した。確か、暗室で、座位の片麻痺患者に対して、目の前で光る棒を傾け、その光る棒が垂直かどうかを知覚させるという実験だった。記憶は定かではないが、確か、5度くらい患側に傾斜している状態を垂直だと知覚した症例が多かったという結果であった。また、左片麻痺患者の方が垂直線の知覚のエラーが強い傾向にあった。なぜ、この卒業研究を記憶していたかと言うと、この卒業研究に対する教師の採点が最高得点だったからだ。僕の『右片麻痺患者における失語症の重症度と手の運動麻痺の関連性』という卒業研究は最高得点ではなかった。その結果が残念で悔しかったために覚えていたのかも知れない。記憶には情動や感情が付着している。忘却していた記憶は不意に甦る。記憶とは不思議なものだ・・・。
先日、『アウベルト現象(Aubert’s phenomenon)』という言葉を知った。アウベルト現象は光学的錯覚の一つで、頭部や体幹を一方に傾げて直線を見たとき,直線が他方に傾いてみえる現象である。たとえば、暗室の中で頭部を傾けて垂直に呈示された光の線分を観察するとき、光の線分が頭部の傾きとは反対方向に傾いて見える。頭部の傾きが小さい時には、頭部の傾きと同方向に知覚される傾向があり、ミュラー効果とも呼ばれる。
このアウベルト現象は、暗室の中で被験者を左右いずれかに傾いた椅子に座らせたときにも起こる。傾斜して坐っている被験者は前面に提示された光る棒を垂直に見えるように要求される。その際、光る棒は被験者の身体の傾きとは反対方向に傾いているように見える。これが正常なアウベルト現象である。
興味深いのは、前頭葉損傷患者、特に前頭前野に損傷がある患者はアウベルト現象を過剰に示すことである。また、その過剰さの原因は「随伴発射(corollary discharge)」の不全によると考えられている。患者は身体が傾いているときに起こる筋緊張を補正する適切な随伴発射が得られない。前頭前野損傷患者は垂直方向の知覚が難しい。自己の身体が空間内のどこにあるかを適切に記録することができず、外界を自己の身体に正確に関係づけることができない。これは、前頭前野損傷患者に認められる自己中心座標空間に関する判断の障害が原因と考えられる。
要するに、前頭前野損傷患者では、外部空間の垂直性に対して、自己の身体内空間を上手く制御できないということであろう。随伴発射は「遠心性コピー(運動イメージ、知覚仮説)」とも呼ばれ、予測的姿勢制御の基礎である。そして、予測的姿勢制御の困難性は「運動の意図と結果の感覚フィードバックの不一致」を来す。だとすれば、健側の上下肢で床面を押して、身体を患側に傾斜させようとするプッシャー症候群は、前頭前野の運動プログラム(随伴発射)の異常と解釈できるかも知れない。
しかしながら、一般的な片麻痺患者でも正確な身体の垂直性の知覚は難しい。座位や立位での体幹の垂直性は微妙に障害されている。そして、身体の垂直性の問題は前額面だけでなく矢状面でも生じる。身体の垂直性は体幹の正中線や重心線と一致させる必要がある。
図1 ピサの斜塔
しかし、ここで問題提起しておきたいのは、「水平性が知覚できなければ、垂直性の知覚は難しい」という点である。この問題提起を理解するには「ピサの斜塔」を思い出すといいだろう(図1)。つまり、ピサの斜塔の原因は地面の傾斜であり、ピサの斜塔の垂直性を取り戻すためには地面の水平性の修正が必要である。
通常、椅子の座面や地面(床面)は物理的には水平である。だが、片麻痺患者が「殿部や足底を介して座面や地面の水平性を知覚できない」なら、体性感覚によって身体の垂直性を知覚するのは困難になる。つまり、水平性の知覚は垂直性の知覚の前提条件と考えられる。
セラピストは、片麻痺患者の座位バランスや立位バランスの再学習において、視覚のフィードバックによる身体の垂直性を強調することが多い。しかし、より重要なのは、殿部や足底の体性感覚を介して座面や地面の水平性を知覚することであるように思う。
リハビリテーションの臨床では、垂直に坐ること、垂直に立つことを要求することが「当たり前」だとされている。しかし、「当たり前」なのは「水平を知らなければ垂直はわからない」ということではないだろうか。
だとすれば、片麻痺患者に垂直に坐ることや垂直に立つことを要求する前に、殿部や足底の体性感覚を介して座面や地面の水平性を知覚する訓練が重要となる。
この重要性をセラピストに喚起するために、一つの臨床経験のエピソードを提示しておきたい。ある患者が座位を取っている。前方の水平なテーブル(机)の上に2つの傾斜板を置き、その2つ傾斜板の上に左右の手を載せ、それぞれどの方向に傾斜板が傾いているかを閉眼で知覚させてみた。この課題(認知問題)は予想以上にかなり難しい。なぜなら、傾斜板の傾斜を知覚するための「指標(基準)」としての水平がないからである。もし、一方の手を直接テーブルの上に置いていたら、そのテーブルの水平性が「指標」になり、もっと簡単だったはずだ。しかし、左右の手は2つの傾斜版の上に載せている。
この時、何が傾斜板の傾きを知覚する指標になるのだろうか。それは座面や床面の水平性である。一方、患者は殿部や足底で知覚できる座面や床面の水平性に注意を向けない。注意は手にばかり向いている。だから、テーブルの上に置かれた2つの傾斜板の傾きがわからない。患者は座面と床面の水平性とテーブルの上の傾斜板の傾きを比較できない。
この臨床でのエピソードは患者が水平性の知覚に困難を来していることを示している。自己の身体を介して水平性が知覚できなければ、頭部や体幹の垂直性は知覚できないであろう。
図2 座面が水平かどうか(殿部)
人間は空間を生きる。人間の身体は垂直性と水平性を知っている。それは体幹の体性感覚に根ざした「暗黙知」である。片麻痺の脳の知覚情報処理ではこの暗黙知が崩れている。片麻痺の体幹へのリハビリテーション治療では垂直性と水平性の関係性を教える必要がある。
そして、それは視覚ではなく体性感覚を介した認知問題(空間問題)として訓練を展開できる。たとえば、片麻痺患者が椅子に座っている時、背もたれが垂直かどうか(背中)に注意を向けさせるべきである。さらに、座面が水平かどうか(殿部)、床面が水平かどうか(足底)に注意を向けさせるべきである(図2)。それらの知覚が可能になった上で、体幹を正中線に基づいて左右対称にして、「腰椎−骨盤リズム」による体幹の垂直性を試みるべきである。
・・・38年前、安藤先生は卒業研究で片麻痺患者の「垂直性の知覚不全」を問題提起していた。それはアウベルト現象と呼ばれるものであった。38年後の今、僕は片麻痺患者の「水平性の知覚不全」を問題提起したい。
そして、「片麻痺患者が水平な座面に座っている、水平な床面に立っているからといって、片麻痺患者が座面や床面の水平性を知覚しているとは限らない」と断言しておきたい。セラピストが、その水平性の知覚を教育しなければ、片麻痺患者は座位や立位の垂直性を学習できないであろう。垂直には水平が必要であり、水平には垂直が必要なのである。
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