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2019年6月20日発行の「高知県理学療法士協会ニュース(No.162)」に、高知県理学療法士協会・会長の宮本謙三氏が『理学療法士の専門性とは如何に』というタイトルのエッセイを書いている。個人的に電話して引用掲載の許可を得たので、まず、その文章を読んでもらいたい。
理学療法士の専門性とは如何に
4月に開かれた厚生労働省の理学療法士・作業療法士需給分科会の報告によると、PTの需給関係は既に供給過多であり、2040年には需要の1.5倍まで養成されるという見通しである。これまでにも需給関係が逆転するという予測は度々言われていたが、現実は予測以上の需要があり逆転せずにこれまできている。加えて厚労省審議会の需要とは基本的に医療・介護の枠内の話であり、予防分野への展開を見据えると今回の報告もどこまで的確かは何ともいい難い。
さて、需給関係は我々の社会的価値と密接に関係する。これまでのPTの社会的価値は、昭和の時代には希少価値のある職種として大切にされ、平成の時代に徐々にその希少性が薄らいできたと見るのが一般的である。この見方は誤りではないが、私はもう一点忘れてはいけないことがあったと思う。それは、PTにしかできない治療が求められていたという点である。1970年代頃から広がったファシリテーションテクニック(神経生理学的アプローチ)の技法は、当時には医師にも看護師にもできないPT固有の治療手技として、脳卒中患者や脳性麻痺児の治療に適用され社会的評価を高めてきた。様々な技法が提唱され、群雄割拠の華やかなりし時代であった。しかし、時代の流れと共にエビデンスに基づく治療が強調され、徒弟制度的な閉鎖性から脱却できぬままその正当性が失われてきた。検証可能な客観的変化のみが治療効果とされ、生活動作訓練が主体の理学療法が主流をなすように変遷してきたのである。
平成の時代におけるこの変化は、理学療法の治療手技の変化に留まらず、社会的評価をも変化させてように思えてならない。生活動作訓練への偏重はPT固有の治療手段を自ら放棄し、起こして歩かせてくれる単なるマンパワーへと変化させたのではないだろうか。俗な表現をすれば、誰にでもできるトレーニングであると公言したわけである。
PT固有の治療手段に再び光をあて、治療効果をお手盛りしろといっているのではない。不自由な手足から生活動作を再学習するプロセスを明確にし、その的確な指導方法を確立させる必要があると考えているのである。その指導方法の専門性を明確にしなければ、誰でもできる治療から発展することはできない。思うに、この壁は今もって悩み続けている体育教師や教科教育の教師と同じ壁である。運動は誰でも教えられるし、小学校の算数も誰でも教えられる。しかし、彼ら教師はそれを的確に指導できるという専門職である。彼らは長い年月をかけて、どうすれば上手に身につけさせることが出来るのかを研究し、教育現場で実践している。これからの理学療法士も同じ立ち位置にいるのではないだろうか。
令和の新しい時代を迎え、理学療法の専門性が改めて問い直されている。需給関係が逆転すると言われる時代に、専門職としての確固たる地位を獲得するには、真似できない専門職としての指導技術を如何にして築きあげるかと言うことではないだろうか。これは病態理解や運動学的解釈を指しているのではない。それらは医療職の共通知識であり理学療法士固有の専門性ではない。医師や看護師にも出来ない専門性、病態の共通理解の上に展開する運動指導の専門性、これこそが理学療法士の本質だと信じている。
(会長 宮本謙三)
このエッセイを読んで、僕は沖田一彦氏のことを想った。
読み終えると、まるで沖田一彦氏の文章を読んでいるかのような錯覚を感じたからだ。彼もまた、このようなタイプの文章をよく書いていた。文章に明確な起承転結があり、相手に内容を吟味させ、意味の読解を求める、という書き方をよくしていた。そこには読解の自由度や選択肢がある。
一方、僕は、こうした文章の書き方はしない。一見、相手に内容の吟味を求めているかのようには書くが、実は意味の読解についての自由度や選択肢を与えない。
それは「開放的な文章」と「閉鎖的な文章」の差異と言えるかも知れない。相手の思考に問いかけるのが開放的な文章だ。相手に自分の思考を強要するのが閉鎖的な文章だ。
あるいは、文章には人間の「やさしさ」や「厳しさ」が無意識に出るのかも知れない。開放的な文章はやさしく、閉鎖的な文章は厳しい。
また、教育においても、昭和は厳しさが求められた時代であり、平成は「やさしさ」が求められた時代であったのかも知れない。
だが、レイモンド・チャンドラーのハードボイルド小説で、探偵のフィリップ・マーロウ(俳優・ハンフリー・ボガート)はこう言っている。
『タフでなければ生きて行けない。優しくなれなければ生きている資格がない』
令和の時代がどうなるかは知らないが、おそらく「効率」が求められる時代になるだろう。そこには教育的な意味での「やさしさ」も「厳しさ」もない。
それはリハビリテーションの世界にも必ず影響を及ぼす。既に、効率を最優先するリハビリテーションは保険医療制度に導入されている。治療技術(運動療法)のあり方や内容にも導入されている。未来のロボットのリハビリテーションも論議されている。それは社会から昭和の居酒屋や喫茶店が消え、平成のコンビニで酒やコーヒーを買って家で飲むのに似ている。本を読まず、ネットの情報から知識をつくることに似ている。文字ではなく映像から知識をつくることに似ている。触覚を知らず質感を感じ取れないことに似ている。空気感や雰囲気やクオリアを感じられないことに似ている。それは愛すべき他者、素晴らしい店や物体、人間関係や社会との、「複雑でファジーなコミュニケーション」が欠落した世界だ。大切な部分が簡略化された世界だ。決定的な何かが失われた世界のことだ。
僕は、そんな効率を求めるリハビリテーションの世界、そんな効率化をよしとする社会の変化を望まない。そんな効率という名を強調する意味を無意味と解釈するような世界では、生きる身体(麻痺した身体)が自己疎外され、生きる一人の人間が他者や社会から疎外される可能性がある。一人称(主観)が軽視され、三人称(客観)を重視する、人間の個がネグレクトされる世界になってしまう危険性がある。それは人間のリハビリテーションの世界ではない。人間が生きている世界は、もっと色々な意味で互いに共感し、響き合う、「豊かな世界」だ。そして、その豊かさは2000万円持っていても買えないし、昨今の個人と社会の齟齬や軋轢による悲惨な事件も減少するはずだ。
リハビリテーションの「豊かな世界」とは何かを考えてみよう。たとえば、一昨日、病院で80歳くらいの脳卒中片麻痺患者の症例検討をした。歩行分析上の問題点(踏切り期の異常)と、その治療訓練(運動療法)の実技がテーマだった。症例検討会は保険医療制度で定められていないし、保険請求できない。スタッフの給与とは何も関係ない。しかし、5時過ぎにはスタッフが集まって開催する。それを何十年も続け、どのように治療すべきか論議している。症例検討は19世紀末のシャルコーやバビンスキーの時代から行われている歴史の産物だ(図)。それはリハビリテーションの「豊かな世界」の一つだ。
その症例検討からの帰り道、車を運転していて、学校の制服姿でリュックを背負って歩いている中学生ぐらいの女の子が見えた。ピョコン・ピョコンと、左右に体幹を揺らしながら、シザース歩行で、一人歩いていた。この女の子は、現在、治療訓練はしていないはずである。その姿を一瞬見て、心がドキンとした。僕は治療訓練をしたいと思った。この女の子の歩き方を歩行分析し、その治療訓練の実技を提供できる。脳卒中片麻痺患者と同じように踏切り期の異常があるのは明白だ。わずか一秒見ただけで、いくつかの治療訓練が脳裏に浮かんだ。だが、それは不可能だ。学校に通うという効率が優先されているからだ。それはリハビリテーションの「豊かな世界」の影だ。
80歳の片麻痺患者がリハビリテーションを受ける権利があるのと同様に、中学生の脳性麻痺児にもリハビリテーションを受ける権利がある。それぞれの病態に応じた意味のある治療訓練が提供される世界、それがリハビリテーションの「豊かな世界」だ。
また、運動麻痺の回復には長い時間が必要だ。運動回復は病的状態からの長い学習過程である。それは脳の可塑性や代償機能に根ざしており、数ケ月、数年、果ては数十年にも及ぶ。だから、単純にリハビリテーションに「効率」を求めてはならない。その「効率」は「回復への効率」でなければならない。そして、リハビリテーションに「回復への効率」を求めるなら、一人のセラピストが午前一人、午後二人の、一日3名程度の治療訓練を担当する状況をつくるべきだ。退院までの期日を短縮し、その治療訓練に効率を求めるのは、患者にとっての効率ではなく、医療側の効率に過ぎない。回復への効率化は、治療訓練の時間の延長が担保されなければ実現できない。さらに、治療訓練の内容がもっと重要だ。時間は長いが内容がないでは回復は生じない。そして、その治療訓練は誰にでも出来るトレーニングではない。その治療訓練は運動学習トレーニングでなければならない。
21世紀の新しい時代を生きるセラピストは、自らの治療訓練の「厳しさ(昭和)、「やさしさ(平成)」、「効率(令和)」とは何かを問いつづけて、リハビリテーションの「豊かな世界」をつくる必要がある。それは「自らの治療訓練に複数の意味を与えること」に他ならない。
「理学療法士の専門性とは如何に」の内容については、各自が個人で思考してほしい。
僕なら、このエッセイに「まだ死なずにいる理学療法のために」というサブ・タイトルをつけるだろう。
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