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メッセージNo.99 メルロ=ポンティの言語論 −自己に身体を与える

 今、アドバンス・コースで『リハビリテーション言語論』の講義をするために少し調べていたら、メルロ=ポンティの言語論に興味深い記述があった。


 作曲家が 自己の音楽的志向を音階を使って分節させ、固有の音楽的意味をもったメロディを生み出すのと同じように、話者もその「言語行為(パロール)」のうちで、その「無言の祈願」であった意味志向を言語的所作の音階を使って分節させてメロディを奏でるとき、彼はある意味を表現し「一つの意味世界」を描き出す。

 言語行為において生起する「言葉の言語学的意味(サンス)と言葉の目指す意味(シニフィカシオン)との超越による接合」とは、このような事態を言う。

 だが、こうした表現の作業は、いわば真空のうちで行なわれるわけではない。無言の意味志向は「私の語っている言語や、私の継承している文書や文化の総体によって代表されるような、自由に使用しうる意味の体系のうちに、自己(おのれ)のための等価物をさがしだす」ことによって「自己に身体を与える」のである。

(木田元:メルロ=ポンティの言語論(W).現代思想,5,p28-36,1980.青土社.)


 これは、言葉によるコミュニケーション(対話)における核心だと思う。あるいは、人間の生活や行為のすべて、対人関係(他者理解)のすべて、音楽や絵画やスポーツの理解も含めたすべて、思想や学問の解釈のすべて、政治や社会の解釈のすべてに関係しているように思う。

 たとえば、子どもの言語の発達でも、サンスをシニフィカシオンへ移行させるのが大変だ。大人が子どもに「ダメ(言語学的意味/サンス)」という意味で言っても、その「ダメ(言語の目指す意味/シニフィカシオン」の意味がわからない。

 音楽や絵画の意味理解や道具使用といった身体運動の意味理解においても同様だろう。たとえば、ピアノのメロディにもサンスとシニフィカシオンがある。一枚の絵画は一つの意味世界である。失行症(apraxia)の道具使用の困難さはサンスとシニフィカシオンの解離に由来しているのかも知れない。

 言葉によるコミュニケーション(対話)において、話し手の言葉を聞き手が「解読」できなければ、聞き手はそれに適切な言葉を「産出」できない。そして、その言葉のキャッチボール(対話)には、サンス・レベルの対話とシニフィカシオン・レベルの対話がある。

 もし、仮に、メルロ=ポンティと僕が対話していて、メルロ=ポンティが前述の言葉を僕に向けて発したとしよう。僕がその意味を「解読」できなければ、次の言葉を「産出」することができない。それではコミュニケーション(対話)が成立しなくなってしまう。

 つまり、言葉の「解読」が「産出」に先行するということである。そして、その言葉の意味は「単語(音素)」ではなく「文章(メロディ)」が基本単位である。

 言葉は「意味の宇宙」である。そして、Perfettiの提案する「失語症の認知神経リハビリテーション」の治療対象は「言語」ではなく「言葉」なのだ。

 もう一度、メルロ=ポンティの言葉(文章)を読んで意味を解読してみよう。
 最後の「自己に身体を与えるのである」という結論がとても難解である。

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